耐解析機能の分類

Gabriel N. BarbosaとRodrigo R. Brancoは,マルウェアの耐解析機能をAnti-Debugging, Anti-Disassembly, Obfuscation, Anti-VMの四種類に分類した.彼らはIntelのセキュリティ研究者であり,マルウェアに備わった耐解析機能の統計を過去二回に渡って発信してきた.
気になるのは,サンドボックスの実装にあたって問題となるAnti-VMだ.8,103,167もの検体を用いた調査によると,その内訳は以下のようになっている.

f:id:isoiso175:20150627135802j:image
これらはいずれもVMware社製品を検出するための手法である.残念ながら他の仮想マシンモニタについての情報は掲載されていない.

仮想マシンモニタの分類

以前にも少しばかり述べた,サンドボックスの透明性(transparency)に関する話を蒸し返そう.
サンドボックスにOut-of-the-boxなVMIを採用すれば,少なくともAnti-Debuggingについては無視できる.
では,サンドボックスXenを用いれば,QEMUより検出されにくくなるだろうか.あるいは,その逆はどうだろうか.
多くの研究者が好き勝手なことを言っているが,仮想マシンモニタの実現手法をもってサンドボックスの透明性を語るのは些か性急だろう.なぜなら,サンドボックスの透明性はその設計ではなくマルウェアの実装によって左右されるからだ.Out-of-the-box VMIは設計の話だが,Anti-VMは実装の話だ(と思う).
ところで私は,仮想マシンモニタの実現手法を「プロセッサ拡張によるもの」と「バイナリ変換によるもの」に分類していたが,別の分類方法を見つけた.
f:id:isoiso175:20150627135856p:image

命令セットアーキテクチャを基準に分類することで,より分かりやすくなっている.今後はこの図に準拠したい.
話を戻そう.
何が言いたいのかというと,in-the-wildなマルウェアに備わったAnti-VMの内訳が分からないことには,サンドボックスの透明性について云々することはできないということだ.

検体

誰もやっていないようなので,調べてみることにした.
やや恣意的(誤用?)な選択だが,今回はVirusShare.comからCitadelのバリアント479検体や,MandiantのAPT1レポートにて報告された中国軍総参謀部第三部第二局こと61398部隊と思しきグループ製の874検体を含む総計33,260検体を用いた.

Anti-VMの実態

YARAを用いてAnti-VMの実態を調べた.
ルールには公式のantidebug.yarを用いた.なお,このルールにはAnti-VMのみならずAnti-Debuggerについても記載されている.

コードは以下の通り
1
# awk '{ print $1}' yara.log | sort | uniq -c | sort -r
  20340 DebuggerPattern__RDTSC
  18966 DebuggerPattern__CPUID
   9292 DebuggerTiming__Ticks
   7371 DebuggerPattern__SEH_Inits
   6955 DebuggerException__UnhandledFilter
   5715 DebuggerTiming__PerformanceCounter
   4377 DebuggerPattern__SEH_Saves
   2949 DebuggerCheck__API
   2631 DebuggerCheck__QueryInfo
   2182 SEH__vba
   1315 DebuggerOutput__String
    887 ThreadControl__Context
    604 vmdetect
    303 DebuggerException__SetConsoleCtrl
    186 SEH__vectored
     83 DebuggerHiding__Thread
     80 DebuggerHiding__Active
     52 DebuggerException__ConsoleCtrl
     10 Check_Dlls
      5 DebuggerCheck__RemoteAPI
      2 DebuggerCheck__GlobalFlags
      1 ▒▒DebuggerPattern__RDTSC
      1 Debuggeattern__SEH_Inits
      1 Check_VBox_VideoDrivers
      1 Check_VBox_Description

マルウェアの開発者がよりgenericな手法を好むことは,RDTSC命令を用いる検体が61.15%, CPUID命令を用いる検体が57.02%含まれていることからも明らかだ.たった2バイトを基準に検出しているため,false positiveだらけなのだろうとはいえ.
一方でvmdetectとして計上された検体は全体の1.18%に過ぎない.これはVMware, Virtual PC, Xen, Virtual Boxに関する文字列が含まれる検体を抽出するルールであり,コードは以下のようになっている.





F.Beiser “German Historicist Tradition”



Introduction : The Concept and Context of Historicism

 

1 知的革命

1-1

“歴史主義の成立”のノスタルジックな前文において、マイネッケは、歴史主義が西洋思想における最大の知的革命のうちの一つであると述べた。歴史主義が知的革命であると、マイネッケは信じていたのだ。歴史主義は、古代から中世を通して蔓延していた従来の思考法を、18世紀中旬より始まる、新しい歴史学的思考法で転換したと言うのが彼の見立てである。旧来の非歴史的志向は人の道徳性や理性を絶対的で、どこにおいても同一であり、変わることはないとみなしていた。新しい歴史的方法はそれを相対的で、変わりうるものであり、それぞれ固有性をもつとみなし、歴史的事象の原因や価値、信念、行為がコンテクストに依存することを示した。そのため、価値のその時代や状況を離れた普遍化は不可能であると言うのである。

1-2

現在マイネッケはあまり顧みられなくなったが、歴史主義の重要性を否定する議論はそれほど存在しない。仮に私たちがマイネッケのテーゼを受け入れるとしてこのような問いが生じてくる。歴史主義とは何であるのか、歴史主義者とは誰のことを指しているのか、その思考法の核心は何であるのか、どのようにして彼らは自己を正当化していたのか といったものである。

1-3

歴史主義に定義を与えようとする試みはたちまち大きな障害に悩まされることになる。その語のもつ多義性というのがそれであり、様々な、時には対立するような方法で用いられてきた。例えば、歴史の一般法則を描く試みとして定義されたり、それとは反対に、そのような法則の存在を否定し、固有の一回性をもった出来事として歴史の固有性を知ろうとする試みを指すこともあった。このように対立的な用法が存在する中で統一した核心の存在を仮定する訳にはなかなかいかない。

1-4

そのため、歴史主義に対しては記述的な定義を諦め、規範的(prescriptive)に定義を与えることで満足せねばなるまい。規範的な定義は、我々の探求を促進する形で行われる。我々の関心は、マイネッケの言うところの知的革命の起原を辿ることであるからして、その目的に合わせて定義する。そのためにも、彼の言うところの革命に寄与した歴史主義者達に基づいて定義を行う。

1-5

私たちの定義はトレルチに従ったものとなる。彼は、否定的な面を捨象すれば、歴史主義は以下のように定義されるという。”歴史主義とは、人間や文化、価値に関する思考の根本的な歴史化である。”思考の歴史化とはいかなるものであろうか。トレルチはそれ以上の定義を与えてはいないため補足を行う。つまり、文化、価値、制度、慣行、合理性といった人間に関わるもの全てが歴史により形成されてきたという思考に身を置くことである。そこには歴史的変化に絶対的に堪える普遍的なものは存在しない。つまり、人間事象に不変なもの、可変なものといった区別は存在し得ないのだ。それらは固有のコンテクストに依存する外ない。ヘラクレイトス主義的な流動の思考というわけだ。

 

 

1-6

今行った定義はあまりに形而上学的ではないだろうか?歴史主義が„Weltanschauung”,世界観の一つに過ぎないことは自明である。それは、近代科学に力を得て生じてきた、自然科学に匹敵する人間世界の科学を立てる為に出現したものである。歴史主義は二つのドグマが存在する。1.人間事象の全てにはその生成に十分な原因が存在する 2.その原因は全てコンテクストに依存した、歴史的なものである。

1-7

非常に大雑把に見ると、歴史主義は自然主義に対応する存在である。自然主義が自然的世界に存在する全てを原則として科学により説明可能であると述べると同様に、歴史主義は歴史的世界に存在する全ては原則として科学によって説明可能だと主張する。そして、自然主義が最終的に自然史を描くにおいて、安定した不変の種の存在を否定することと同様に、歴史主義は不変の人間本性といったものを否定する。歴史主義は自然主義の自然史の手法を利用し、人間事象に適用したのだ。

1-8

自然主義との類似があるとしても、歴史主義は自然科学の法則や方法の人間世界への適用といったように、単にその一種、模倣なのではなく、歴史主義者は、必ずしも自然界と同様の方法や、法則で説明可能であると主張する訳ではない。実際歴史主義者内部でもそれらが同様であるかは一概に定まっていない。

1-9

歴史主義は自然主義に反対して、歴史学的知識はユニークなものであり、自然科学のそれとは異なると主張してきた。マイネッケ、トレルチなどはこの立場を採用する。しかしながらここには重大な2つの問題点が存する。

1.実際のところこのような立場は歴史主義者においても少数派である。19世紀後半のドロイゼンやディルタイもこのような立場を取り、彼らの理解(Verstehen)という方法を自然主義に対立するものとして構想してきたが、彼らの方法論から歴史主義を定義するのはこの語の他への応用が困難となり、歴史主義者はこの二人に限られると言わざるを得なくなってしまう。

2.歴史主義は18世紀の、ニュートン力学の方法と法則を歴史に適用することで”人間の科学”を構想する自然的方法論に端を発するものであり、クラデニウス、メーザー、ヘルダーそしてフンボルトはこのような方法論の一大旗手であった。これらの歴史主義者の根源的役割は後世の歴史主義の研究者-特にマイネッケからは小さく見積もられてしまった。そのため、歴史主義と自然主義の明確な相違を主張するためには、彼らを歴史主義の伝統の外にあるものとみなさなくてはならなくなるが、そのような帰結は受け入れ難い。自然主義との対抗はドロイゼン、ディルタイといった後世の歴史主義から生じてきたものであり、反自然主義的に歴史主義の定義を与えることはアナクロニズムに陥る。

 

1-10

加えて、歴史的変化がいかなる事象にもつきまとう という歴史主義の中心的テーゼは二つの原理を伴う。

1.個体性の原理 この原理は歴史主義の伝統で大きな意味を持っており、その意味はその時々のコンテクストに依存しているが、一般的な定義するならば、歴史的の主題の決定や、歴史学の探究の目標というものは個体的であるということだ。例を与えるならば、特定の人、行為、文化や時代は特定の時間と場所において存在しているということだ。この原理はプラトンアリストテレスにまで遡ることができるが、歴史主義者はそれに新しい意義を与えた。物事の個体性は、物事が個々の相違に関わらず存在する普遍性や、法則がそうであるのと同様の意味で、科学的な対象であると主張したのである。

2.ホーリズム 非常に大ざっぱに定義すれば、全体は部分に先立ち、それら部分に還元できないという主張である。ヘルダーからウェーバーまで、ホーリズムは歴史主義に特徴的であった。歴史主義者は個々の人間が自己充足的な存在でも、独立している訳でもなく、彼らのアイデンティティや存在それ自体が歴史的、社会的、文化的な全体世界における位置づけに依存すると主張した。このホーリズムの主張に従えば、社会や国家などは、単なる独立した部分の集合体、構成物とみなすわけにはいかなくなり、相互に依存し合った要素から成る不可視の全体、結合というものを仮定することになる。全体は部分に還元できるとするアトミズムは、古い機械論的思考の産物として否定される。これら二つのテーゼは連関し合っている。個体は還元されない全体として理解され、それら全体は個体として理解される。

 

1-11

更に歴史主義には、古い哲学的前提、14Cのオッカムより発する唯名論を基礎においており、歴史主義者達は、様々な方式でそれを受け入れた。それは、普遍というものを、精神の構成物とみなし、独自の実在性を認めず、物に内在するものともしないという立場である。この立場は、変化、流動がいかなるところにも存在しており、永遠の形相の否定を行い、個物を優先させると言うという方法論に適合的であったため、歴史主義に資するものであった。唯名論の立場に立つことにより、歴史主義は、歴史家が、精密性、明確な因果関係の把握や、特定の事物にはそれ独自の具体化の方法を取るように促した。特定の思考、意図、信念の意味や目的というものは、それを具体化した言葉や行為、特定のコンテクストに依存しており、そういった具体化されたものは、共役不可能であるため、人間本性に対して単一の形相などを見出すことはできないのであり、特定の時や場所に従った表現、具体化を離れて価値や本性について話すことは単なる抽象論に終始してしまうというのが彼らの主張である。

 

1-12

歴史主義の唯名論的要素は、広く行き渡っており、根幹に関わる物であるのにしばしば見落とされてきた。むしろ、彼らのホーリズム的側面から、形而上学的傾向が強調されてきたのである。確かに、ホーリズムは、抽象的普遍的な実在が個物とは独立に存在していることを肯定しているとみなされ、唯名論に敵対的だと考えられてきた。一見するとこの主張は正しそうに映る。個物のみがそれ自体で存在していると考える唯名論に立つならば、全体という物は部分の構成する抽象観念に過ぎないというべきに思われる。しかし、ホーリズムの立場において、部分と独立した全体の実在を措定することは必ずしも必要ではない。全体は実のところ部分によって存在すると主張してよい。ただ、理論において説明的に部分に先行して存在すると主張することはやはり可能である。歴史主義者が、両者を両立させることは可能であり、彼らを本質主義、抽象的対象を実在すると見做しているとして非難することは些か的外れなのだ。

 

2 科学としての歴史学

2-1

歴史主義は抽象的な知的潮流に留まらず、人間世界に関わる思考を歴史に基礎付けようとするものである。それらの伝統を一貫したものとして認識させるものは、彼らの方針、目標、企図によるのだ。方針は、単純だが熱意に富んでいる。歴史に、科学としての正統性を与えることであった。それは、歴史を科学に変質させるということではない。-おそらくルネサンスの時点ですでにそれは成し遂げられているのだ-そうではなく、歴史を科学足らしめているものを明らかにしようとすることを意味していた。歴史主義の思想家は、自然主義反自然主義のどちらに他党とも、歴史の科学的地位を正当化しようとした。ここで言われるところの、「科学」とは、独語の„Wissenschaft”の意味に相当し、広い意味を備えている。„Wöterbuch der philosophischen Begriffe”に従うと、「整序された、知識獲得の方法」という定義があるが、これは適合的だろう。詳細な定義においては、歴史主義者間で相違はあるが、同様に、歴史学の科学としての地位を確立しようとした。歴史主義による知的転回は、同時に新しい歴史への姿勢を備えており、それは、歴史は自身の内的な正当性でもって、科学たりえ、新しい自然科学同様の尊重を得られるということであった。

2-2

アナクロニズムを避ける為にも、私たちの先入見であるところの、近代的、実証主義的な科学の概念を歴史主義者による定義に持ち込まないようにしよう。その概念とは、科学と人文学(art)が対立するというものである。歴史主義者は、歴史を科学として鼎立しようとしたが、それが人文学としての地位を放棄するものとは全く考えていなかった。主要な歴史主義者達は、歴史学は人文学と科学、両者のもとにあるものとみなしており、ドロイゼンのみが、人文学と科学を確然と区別したが、それは有力な説とはならなかったが、人文学と科学の関係は、彼らを立場において分かつことになるだけの問題となった。しかし総じて、歴史学が科学であるために人文学とは異なるという主張を導くことにはならなかった。もう一つの先入見は、歴史の成果が、歴史家の地平に全く依存せずに妥当性を有する。というような、完全な客観性を記録できるときにのみ、歴史が科学であると主張できるといったものである。クラデニウスにより歴史主義の伝統が創始された際でさえ、歴史は科学たりえるが、依然として地平に拘束されたものであると主張された。歴史家の立場に立つことによってのみ妥当性が得られるといった主張がそれである。このような、ある観点に依存していることは、歴史の科学たる地位を脅かすものではなく、支えるものであった。知識は依然として、視点に依存して存在しているものであり、その相対性を自覚することで初めて、絶対的、超越的な立場に立った主張を行うことに伴う誤謬を回避できるのである。この議論は更に進んで、ヘルダー、ジンメルウェーバーや新カント派によって、様々な形式を与えられた。歴史学は、客観性を要求するかという議論は、歴史主義者たちにとっては一般に想定されるものとは別の問いを意味していたのだ。故に、私たちはあらゆる伝統を客観性と言う素朴な概念に基づいて均質化してしまうことはしないようにしよう。そうするならば、歴史主義の全伝統を、ランケが誤解して捉えたものと同様のものにまで狭めてしまうことになる。

 

2-3

歴史主義の企図において科学の概念がいかようであろうと、その試みは、歴史学的というよりは自然科学的なものであった。歴史学の科学としての地位を正当化する際に、認識論的な問題を主張することは重要である。歴史学における知識というものはどのようにして可能になるのか?自然科学における知識との相違は何であるのか?客観的な歴史学的知見は可能であるのか?歴史学と人文学との関係は何であるのか?そのような疑問を考えてみると、歴史主義者達の関心は、一次的な歴史学ではなく、歴史研究の方法論や、歴史記述の方法や基準といった二次的なものに向けられることは明白であった。そのため、歴史主義とは本質的には哲学的な伝統であるのだ。18世紀後半より、歴史家が哲学的に考察を行うようになり、哲学者が歴史について考察するようになっていったのだ。

 

2-4

哲学的な伝統であるからと言って、歴史主義が歴史哲学における目標や問題と同視されてはならない。歴史主義の伝統は本質的には歴史学的知識の二次的考察を含んだ認識論的な思考であり、歴史の法則や、目的、意味といった一次的思索を含んだ形而上学的なものではなかった。歴史主義者はしばしば、歴史哲学への批判者であり、そのような形而上学的性質は、歴史学の科学としての性質を損なう物であると警戒していた。未だに強く残っている歴史主義を歴史哲学と同視する考え方は改められねばなるまい。

 

2-5

主な歴史主義者は、歴史主義の認識論的構想に着目することで見分けられる。彼らは歴史学の科学としての身分を正当化するために貢献した歴史学者であり哲学者でもあった。クラデニウス(1710-59),メーザー(1729-94),ヘルダー(1744-1803),フンボルト(1767-1835),サヴィニー(1779-1861),ランケ(1795-1886),Moritz Lazarus(1824-1903),ドロイゼン(1838-1908),ヴィンデンバルト(1848-1915),リッケルト(1863-1936),ラスク(1875-1915),ディルタイ(1833-1911),ジンメル(1867-1918),そしてウェーバー(1864-1920)である。

2-6

もちろんこのリスト以外の多くの主要な歴史主義者がいることは疑い得ない。ゲッティンゲンの古典主義者達などはその典型だろう。しかしながら、私たちは歴史学の科学としての地位そのものの生成を負うのではなく、それを正当化しようとする伝統を追っていくのであり、そのため、少なからぬ哲学者がリストに含まれ、歴史学者が含まれないという事態になったのである。

2-7

ヘーゲルマルクスは歴史主義者ではないのだろうか。実際彼らを歴史主義の伝統に位置づける研究は多い。それは恐らく確かであろう。しかし、彼らの貢献は歴史哲学において大きいのであり、更には、歴史学の科学としての地位を正当化しようとしたというより、歴史学を自然科学に近づけようとした者であった。実際、フンボルトディルタイは歴史が科学たりえると言えるのは、ヘーゲル主義の呪縛を断ち切ることにより可能となると主張していた。ヘーゲル主義、そこに含まれる弁証法の概念は彼らにとっては推測的性格が強すぎ、形而上学的であった。後にリッケルトウェーバーらが類似の理由でマルクス主義を非難することにもなる。マルクスも結局唯物論形而上学の基礎付けに多くを負っている為に。

 

2-8

歴史主義を今回は歴史学の科学的地位の正当化を試みる思潮と定義するからして、歴史学的方法に対する特定の見方を意味してはおらず、今回取り上げる歴史主義者においては、歴史学を自然科学と類似のものとみなすことに肯定的、否定的両方の立場を取る者が含まれることになる。

2-9

このように広い概念を扱うことによって私は、広く理解されている意味での歴史主義の定義に伴う問題を回避したいのだ。先に述べたような歴史主義を歴史の一般法則や目的といったものを希求するといったものと同視したり、それとは真逆で歴史への相対的視点を意味することや、解釈学の伝統とみなすことというのは全て、定義において狭過ぎると私は考える。

 

2-9

歴史主義の定義の正当さを検証するには、マイネッケの言うところの知的革命に貢献した思想家が全て含まれているかをまず考えなくてはいけないと私は考えた。他の定義においては少なからぬ思想家が除外されてしまうのだ。今回採択する広い定義は他の研究者も暗黙の内に前提としていたものなのである。

3 歴史主義と啓蒙(主義)

3-1

なぜ歴史主義は西洋世界に知的変革をもたらしたのか、この理由は既にマイネッケへの軽い参照において確認した。しかし、この知的変革の深度と射程を十分に知るためには、多くの論争と解釈を招いたことを含め、更に正確にその次元と帰結を知る必要がある。

 

3-2

広い歴史的視座から見て、歴史主義は西洋哲学において延々となされてきた社会的歴史的、道徳的価値の超越的正当化、たとえば、それらの価値に普遍的で不可欠な妥当性や、自身の社会的文化的コンテクストを超えた場所における指示を当てるようなものを覆したのだ。そのような正当化は、強く宗教的、すなわち神の摂理や超自然的妥当性のようなものでもあった。しかし、徹底して世俗的なものもあった。すなわち、自然法や人間理性のような観念がそれである。歴史主義は両者を疑問視したのだ。

3-3

歴史主義の歴史的重要性は、啓蒙との断絶によってよく推し量ることができる。啓蒙は18Cヨーロッパの知的生活を支配していた。歴史主義の隆盛は啓蒙の衰退と同時に起こった。歴史主義はいくつかの側面において啓蒙に端を発するのであるが、最終的には啓蒙の前提と決定的理念を掘り崩したのだ。啓蒙の遺産に忠実に、歴史主義は理性の領域を拡張していると主張したし、実際彼らによる理性の領域の拡大は自然哲学が自然を説明したと同様に歴史を理性で解明するよう促したが、この企図は最終的に、啓蒙の合理的、普遍的原理を道徳、政治、宗教に与えるという試みを否定したのだ。人間の信念や慣行の原因や理由を突き詰めるほどに、それらは特有の歴史的文化的コンテクストに依存していることが明らかになり、これらの対象を普遍的なものとするべきでないということになっていった。道徳や政治、宗教における信念や慣行を、あたかも人々が、自身の文化を超えて目的、意味、妥当性を有しているというふうに、普遍的なものとして正当化することは、不可能でないにしても、困難になった。そのため、道徳的、政治的、宗教的信念を合理的に正当化するという、啓蒙の主要な目標は幻想であるとみなされたのだ。

 

3-4

歴史主義の観点からすれば、啓蒙の主な問題は、啓蒙主義自体が克服したとされてきた中世の遺産に多くを負っていたことにあるということになる。中世神学は常に、諸々の諸価値に超越的妥当性を要求していた。啓蒙はそれの持つ、宗教的装飾を取り除いたのではあるが、より現世的な言葉で超越的妥当性を探し続けたのである。自然法であったり、社会契約であったり、普遍的な人間理性、不変の人間本性などがそれだ。これらすべての概念は歴史の流動を超えて妥当性が保証されると考えられたのだ。仏のphilosophes,独のAufllärerや、英の自由思想家(free-thinkers)といったすべての啓蒙思想家は、具体的な社会、国家、文化を判定するためのアルキメデスの点を求めていた。歴史主義の重要な含意の一つは、そのような立脚点が不在であることなのだ。

3-5

近年の研究者にとり、歴史的哲学的な歴史主義の重要性は、啓蒙を打ち倒したことにあるという議論は、古い神話となっている。これらの研究者は、啓蒙は決して非歴史的なものではなく、後代の歴史主義者における歴史記述の方法と準則は明らかに18Cの啓蒙の著作家において明らかに看取されるとのことだ。啓蒙と歴史主義を対置させたマイネッケは彼らの批判の的となり、マイネッケの枠組みを単純でミスリーディングとして排し、代わりに歴史主義と啓蒙の連続性テーゼを採用する。

 

3-6

啓蒙が非歴史的なものでないのはそうだとして、更には歴史主義が啓蒙から生じたのも確かだとしても、両者に断絶がないとは決して言えない。これら研究者はその逆に両者の連続性を単純に立てすぎる誤りを犯している。歴史主義が諸点で啓蒙に負っているとしても、その他の点においては、やはり両者は対立しているのである。大切なことは両者が連続している点と断絶している点を正確にし、記述していくことだ。ここで私たちは三つの非連続な側面を確認していく。

 

3-7

啓蒙の特徴的な原理は個体主義、ないしはアトミズムだ。例えば、個人は自律的で、特定の社会的歴史的コンテクストと独立の、定まったアイデンティティを備えるということがそれだ。このテーゼは社会契約論などで常に現れるものだ。これはルソーやヒュームにおいて主張された広く普及した信念を反映している。不変の人間本性が存在している、具体的には人間は歴史を通して同様の存在であるというのがそれである。この個-アは、もう一つの啓蒙における特徴的な主張にまで遡る。それは、学問の正しい方法は分析的なものであり、ある現象を構成部分に分割することにあるという信念である。その方法は、自然科学において用いられたものであり、社会と国家に関する学問における模範とされた。

3-8

歴史主義の伝統に位置する思想家のほとんど(ジンメルウェーバーなどなど)が、この個体主義を疑問視していることは明白である。彼らは変わって、人間のアイデンティティが固定的ではなく可塑性があり、不変なのではなく、変わりうるとし、それが社会、歴史における特定の位置に依存していると述べた。歴史主義の伝統におけるホーリズムによってアトミズムに反対するのは、そのためにも必要なのであった。全体を個々の独自に存在する構成員に還元可能とするのではなく、歴史主義は全体が諸部分とそれらのあり方に先んじて存在すると主張した。

 

3-9

もう一つの啓蒙主義における決定項としては自然法が存在するという信念である。それは、すべての文化、時代において当てはまる普遍的な道徳規準が存在するというものである。これらの基準は”自然”であるとされる。それは、普遍的な人間本性(nature),ないしは自然の目的それ自体に基礎をおいているためであり、更には、特定の国家において成立した実定法や伝統に左右されないためであった。自然法の伝統はそのため、歴史の変動を通して単一の人間本性があり、すべての時代、文化における同一の道徳的価値を認める普遍的な人間理性の存在を主張するのである。

3-10

その後の時代における19Cの歴史主義者,ランケ、ドロイゼン、サヴィニー、ディルタイ、そしてジンメルは、自覚的かつ明確に、自然法の伝統を否定していった。ヘルダーやメーザー、フンボルトにおいてはこの伝統は未だいくつかの側面において利用されていたが、彼らは自然法における用語を用いる一方で、非常にその概念に批判的でもあった。歴史主義の伝統におけるすべての思想家は、自然法における教義は不当に、18Cヨーロッパにおける価値をあたかもすべての時代と文化に当てはまるかのように普遍的なものとしたと主張している。ある文化、時代における諸価値を理解するためには、それはその時代、文化の内側にたって研究し、その歴史と諸状況からどのようにしてこれらの諸価値が生じたのか調査する必要があると彼らは述べる。歴史的に諸価値を考察することにより、それら諸価値の目的と意味が全般的に特定のコンテクスト、それらの社会的、歴史的な総体における特定の役割に負っていることが明らかになるのだ。これらのコンテクストはそれぞれが唯一の、協約不可能なものであり、そのことはその内側にある諸価値にもあてはまる。そのため、歴史的、社会的コンテクストに関わらない一般化を行うことは不可能となるのだ。

3-11

啓蒙における世界を合理化するという試みに関して重要であったのは、政治的近代化という計画、特に、官僚的集権化、法典編纂への奮闘である。プロイセンのフリードリヒ大王や、ヨーゼフ二世、フランスの革命における政体で見られるような啓蒙的政策は、すべての都市、地方、宗教に当てはまる単一の法規範の形態を創出、施行しようとした。古い地方的、宗教的な慣習と法の乱立は単一の合理的な制度のために廃棄されるべきなのだ。これらの法典編纂作業は、政治的集権化と手を携えて行われた。それは、すべての地域を単一の統治者と官僚組織の下で統治、管理しようとするものであった。地方の自治と宗教の自律は中世の遺物として取り除かなければならなかったのだ。

 

3-12

歴史主義者の伝統はこの抵抗から始まるのである。啓蒙の法的な統一性や中心による支配に対抗して、初期歴史主義者(メーザー、ヘルダー、サヴィニー)は、地方の自治と、法的な多様性の価値を援護した。啓蒙の世界史民主義に対しては、地域的基盤を持つことや、特定の時と場所に調和することの価値を説いた。そのため、個体性の原理(歴史主義における)は認識論的のみならず、道徳、政治的な意味を備えることになった。地域性や、特定の国家への志向は、個人のアイデンティティの基盤として、促進され、保護されるべきものとされた。後期歴史主義者(ドロイゼン、ジンメルウェーバー)は中央集権国家の不可避性を認識していたが、世界史民主義は志向せず、所属しているコンテクストとしての場所を、国家全体に広げたのみであった。


4 歴史学的知識という問題

4-1

啓蒙との一定の断絶以外にも、歴史主義が知的革命であるとされる理由は存在しているのだ。それは、歴史の科学としての資格を、古代にまで遡る知のパラダイムを排することにより、正当化する試みのことである。そのパラダイムアリストテレスの『分析論 後書』における、科学は、論証可能な知識から成り、その論証は必然的な前提による推論によって行われるというものである。アリストテレスによれば、ある命題の審議は三段論法により検証可能である。そして、その場合のすべての前提は、普遍的、必然的に正しいものである、すなわち、真偽は、全ての事例に措いて真であるかそうでないかに分けられる。このような、数学的原理に依拠した科学の理想は、歴史学には適用困難であった。そのような意味での厳格な基準によれば、歴史学は科学ではないとされる。歴史の主要な対象は、普遍に対立する意味での、特殊であり、あれこれの人や出来事という論理的では他でもありえたものであって、アリストテレスの要求する意味での普遍性と必然性に欠けていた。アリストテレスはこのように結論を導きだし、このような理由で、歴史学を、知の形態として詩学よりも下位に置いた。歴史家は、ある人がある時代に措いて、何をなしたかを伝えるのみであるが、詩人は、ある性質の人間が同様の状況に措いてどのように行動するのか、といういくらか普遍性を備えたものを伝えるという意味で。

 

4-2

この歴史学に対する汚名は、初期近代に至るまで維持されてきた。スコラ学への反動の存在にも関わらず、アリストテレスの科学に関する理念は17,18世紀の偉大な人物において生きながらえている。例えば、デカルトホッブズライプニッツそしてヴォルフはアリストテレスの検証可能な知識としての科学としての科学のモデルを支持していた。彼らは、証明可能な命題、それらの全てが定義から、もしくは自明の前提から導出されるような命題の体系から、科学は構成されると主張した。ある命題が、科学としての身分を得る為には、普遍的かつ必然的な妥当性が要請され、歴史学の命題を含んだ経験的命題は、そのような意味で、知識としては扱われなかった。以上のような理由により、これらの思想家は正当にも歴史学を科学の領域から排除していたのである。デカルトは、『方法序説』において、最も正確な歴史に措いても知識の基礎たり得ないとの警告を発し、ホッブズは、『物体論』にて、歴史を哲学から排している。「なぜなら、そのような知識は、経験や権威であって、推論ではないからである。」ライプニッツとヴォルフは共に、歴史学は、特殊性と偶発性の領域に属するが故、科学としての地位を得ることは出来ないと明言している。ヴォルフが記すところによれば、一般的な歴史学の知識は、知識における最も低い地位を占めている。なぜなら、それは感覚に依存しており、諸々の出来事の原因に向けられた洞察を我々にもたらさないからである。初期近代の合理主義者達は、そのため、科学と歴史の間に断絶を見出している。歴史家は、プラトンの言うところの洞窟の深みに囚われたままだと言うのである。

 

4-3

重要な点に措いて、18世紀の啓蒙の時代は、歴史的知識を正当化することに関する問題をいっそう深めることになった。啓蒙の第一の価値は、自分で考えると言う意味での知的な自律である。自分で考えるために、私たちは自信の洞察に基づいて、同意を行うようにしなければならず、自身の理性や敬虔により確信できた命題のみを受け入れるのである。私たちは権威に基づいて、信念や信仰から命題を受け入れてはならない。ここにおいて、歴史はまたしてもこれらの基本的要求を満たすのに失敗したようである。自身の理性と敬虔のみで、歴史の命題を検証し得ないのである。歴史は過去を扱うものであり、過去は存在しておらず、各人の経験を超えているという問題であった。自然科学には再現性があるのに対し、歴史の固有の出来事にはそれがないのだ。というのも、歴史は必然的に、検証と、他人の手による資料への信頼と信念に基礎を置くからである。そのため、歴史はその本性上、科学たり得ないのであった。

4-4

その徹底的な変革にも関わらず、カントのコペルニクス的転回は、過去との完全な断絶に至ることは出来なかった。合理主義への鋭い批判をおこなったが、そこに含まれる科学の理念を未だにカントは保持していたのだ。彼の合理主義の理念への傾倒は、科学が自明の原理によって構成される体系から成るとする彼の主張からも読み取ることが出来る。合理主義の伝統における数学的理念への拘りは揺らがなかったのだ。そのような立場は、”自然科学の形而上学的基礎”の前文における、ある原理は、その主題が数学的操作を許容する程度だけ科学的であるとする記述にも現れている。

 

4-5

歴史主義者達はどのようにしてこれらの困難に対峙したのであろうか?カントや啓蒙思想、合理主義に対してどのようにして彼らは歴史学の科学としての地位を立証しようとしたのだろうか?その応答には多くのヴァージョンがあり、それらは全て複雑なあり方をしていたのだが、後述する。ここでは、主要な展開を概観していく。

 

4-6

17世紀の末期に、応答の1ヴァージョンは明確化されていた。新しい合理主義の精神に感化されて、フランス、オランダにおける、多くの初期近代の歴史家達、バイユ、デュボス、Frensnoyらは、歴史自身に高度の明証性を要求するようになった。これらの歴史学的ピロニズムは、Descartesの方法論的懐疑を歴史に持ち込んだ 。彼らは伝統的な歴史学の情報源には懐疑的で、十分な明証性が確かめられた時のみそれらを受け入れるようにした。全ての資料は出来る限り、その起源を辿られ、文書館の原典と照らし合わされることで認証されなければならなかった。Descartesが科学的方法の原理を打ち立てたように、歴史学的方法の原理が打ち立てられることになった。利用される資料は、目撃者によるもの、同時代の記述により確証できるもの、他の検証された事実と整合するもの…といったもののみに限られた。歴史家達は、単純で質素な事実こそが、探求の目的であり、出発点ではないことを悟った。この歴史における新しい合理主義者の精神は、18世紀を通じて徐々に成長していき、その世紀の末には特にドイツにおいて、標準と成っていた。例えば、ミュンヘンマンハイムゲッティンゲン大学などでは、出版許可を行う前に、全ての歴史学的著作は徹底した資料の研究に基礎づけられていなければならず、これらの資料は著作に引用されていなければならなかった。18世紀末、19世紀のドイツの歴史主義者は、新しい合理主義的精神のチャンピオンなのであった。19世紀の偉大な範例はランケであり、彼はそれまでの伝統の象徴であり、蓄積に他ならなかった。

 

4-7

もう一つの応答のヴァージョンは、ベーコンに端を発するものだ。彼は、17世紀の初頭に、アリストテレスの伝統とその論証的な知識の枠組みに向けた先鋭な批判を行った。彼は、Novum Organonにおいて、論証を主軸とするパラダイムを非効率的な自然調査の方法として攻撃した。確かに論証という手法は、既に得られた知識の説明や整理に関して有効ではあるが、新しい知識の獲得の手法としては有用ではないと彼は言う。発見をなす為には、私たちは単に自然について推論する以上のことをしなければならず、自然に直接向き合い、疑問に答えるように自然に働きかけなくてはならない、すなわち、実験を行わなくてはならない。自然を分解、統合するだけの力があれば、私たちは自然についての知識を得ることができるのである。故に、自然について知ることは思考に関わる問題ではなく、行動に関わる問題なのである。「人間の知識及び人間の力は一つに結合するのである」懐疑派の、私たちが自然を知る可能性に対する懐疑は、人間が自然に対して力を持ち、自身の命令の通りに帰ることが出来るという事実で反論することが出来るのだ。ベーコンは、古い論証的知識の枠組みを、特に懐疑派に対する弱さと言う点で疑った。その枠組みへの批判としての、懐疑派の知識への攻撃は反論の余地のないものであった、自然は推論や論証のみでは知り得ないということを明確に示していたのだ。

 

4-8

ベーコンは常にこの新しい方法の社会的政治的利点を主張していたが、その方法が主な対象としていたのは自然研究についてであると見做していた。その方法の人間的事象にとっての重要さと適用が見られるのはヴィーコの”Scienza Nuova”においてである。ヴィーコの大きな貢献はベーコンの枠組みが自然的事象以上に人間的事象にとって当てはまることを発見したことである。社会的政治的環境は私たちに取って十分理解可能で無くてはならないとヴィーコは言う。それというのも、それらは私たちが創りあげたものだからだ。自身等が殆ど関与しない自然的事象について人間は殆ど知り得ないが、文化的事象—それらの法、言語、制度そして技芸は人間のなしたものである については多くを知りえるのだ。ヴィーコの作品はドイツで殆ど知られることはなかったが、その背景にあるベーコンの枠組みは、ヴィーコとは別の媒介者により十分に知れ渡っていた。それはカントである。ベーコンの枠組みは、カントの思考の背景にある「思考の新しい手法」と全く同様のものであった。彼の”Kritik der reinen Vernunft”の序文において、カントはアプリオリな知識を全ての知識の枠組みとした。その上で、私たちはアプリオリな対象を自身がそれらを構成する範囲においてのみ知りえると彼は主張したのだ。更に彼によれば、私たち自身の知るという営為は、私たちにとっては明白なことであり、私たちが構成する範囲において、物事を知ることが出来るのだ。カントが自身の研究の方針として、ベーコンの”Instauratio Magna”から引用を行っているのは理由のないことではないのだ。

 

 

4-9

そのため、カントの強力な合理主義や、非歴史的な理性の概念、更には彼が「歴史的思考」を欠いているということにも関わらず、彼の哲学はやはり、新しい人間の科学にとって革命的な重要性を備えているのである。その重要性はベーコン的な知識の枠組みに由来する。カント自身は彼の原理の社会的文化的領野への適用を予見していなかったが、その原理の持つ含意はその語の発展に十分なものなのだった。フンボルト、ランケ、ドロイゼン… は皆、カントの原理を歴史的知識自身に当てはめたのである。カントによる新しい枠組みは、少なくとも原理として、過去と現在の人間世界の全域を理解する鍵を与えるように思われたのだ。彼らの信念によれば、私たちは人間世界を理解可能なのである。そのことは、それらを自分たちが構築しており、何をなしたのであれ、自身の創造したものは自分たちに取っては明白なのである。と言う明快な理由によっていた。同様の手がかりによって、私たちは過去を理解することが出来る。というのも、私たちにはそれを追体験し、以前それをなした昔の人間と同様の創造的行為に参与する能力を備えているからである。

 

4-10

ベーコンの枠組みと同程度に重要なのは、新しく出現していた歴史に関する有力な認識(science)である。それはまだ、歴史の科学としての地位を主張できるほどではなかったのであるが。結局のところ、私たち現在の世代は、過去の全ての出来事を構築することはなく、私たちは累積した遺産—現在、私たちがその中で生きる世界を構築した強力で、明白に異質な力の相続者なのであるというのがそれだ。そうだとしたら、私たちは、自分たちが構築したのではなく、自分たちを構築したものである過去と言うものをどうやって知ることが出来るだろうか。けれどもこの認識が、歴史主義が革命的である要素なのである。歴史主義は過去に対する全く新しい姿勢を含んでいた。それは、過去を何か失われたものとするのではなく、生成する現在の一部であるとみなす。歴史主義者にとって、過去と言うのは単に異質なものではなく、自身に深く根付いたものとされるのだ。それは、失われるものではなく、今-ここに私たちと共にあるのだ。過去が今の私たちを形成する。このような過去の見方の背後には、ヘルダー、メーザー、サヴィニーそしてフンボルトによる、歴史主義的な、新しい全体論的な人間学が存在している。その人間学とは啓蒙主義個人主義、原子論に対抗して生じたものであった。旧来の人間学は、歴史的、社会的地位から自立した人間の固定的本性、同一性というものを仮定していた。文化が変容したり、社会的、歴史的立場が変わったとしても、個人は本質的には同一だと考えられたのだ。過去は個人の内面には根付いてはいない。というのも、歴史は、個人の同一性形成においては役目がないからである。それに対して、新しい歴史主義者の人間学においては、個人の同一性は徳的の文化や、社会的歴史的地位にまさに依存しているとされる。そのため、過去とは私たちの内面に根付いており、現在の私たちを形成している。この新しい人間学は、私たちの自己認識は、自身の過去、起源にさかのぼることで初めて可能になることを含意している。そして、過去を知る為には、自分たちがというものが与えられる過程を遡り、私たちに既に何が与えられているかを開示すればよい。

 

4-11

しかし、懐疑的な人間はこう述べるであろう。この点を正当に受け入れたとしても、歴史に科学の地位は依然として与えられないと。つまり、自分たちが歴史によって形成されるということを受け入れたとしても、私たちは過去がどのようであったかを決定することに対して、依然として望ましい立場に立ったことにはならないのである。何と言っても、私たちは内省のみによって過去を知ることは出来ないのである。私たちは過去を知るに際して、非常な骨折りを避けることが出来ない。それは、いくつかの情報の破片を正当に理解し、記録や遺物から得られる不整合な情報の破片を、再構成することの困難に外ならない。そのうえ、いかなる再構成も科学の水準から求められるものからは隔たっているように思われるのである。だが、繰り返しになるが、このような懐疑に対して歴史主義者は回答を備えているのだ。その回答は、クラデニウスが1750年代に用意したものに端を発する。そして、彼の様々な方面に向けられた一連の推論は、歴史主義の伝統の大要を表している。1751年の”Allgemeine Geschichtswissenschaft”において、彼は歴史的懐疑派(Pyrrhonist)に対し、歴史的知識にはそれ固有の知識の基準を有しており、それは、論証的な知の基準とは独立に考察されるべきだと主張した。確かに歴史的知識はしばしば不確定であるが、それらを論証不可能であるという理由から一纏めにして棄却するのは不合理である。歴史学は数学ではなく、そのような性質を備えることを望むべきではない。アリストテレスが述べたように、私たちはその主題が許容する以上の厳密さを期待することは出来ないのである。勿論、私たちが歴史的命題の多くを疑うことは可能であるが、それは、歴史学における明証性の基準に達してない時のみに有意なのであり、それを幾何学的明証性を得られないことで疑うことは意味をなさない。クラデニウスは細部にまで渡って、歴史家の証拠収集と精査の方式を解説した。これら説明された方式は、基準と厳格さを保障し、それに従うことで、歴史家は、主題に関する十分な精確さを得ることができ、少なくとも確実性を得ることに失敗したこと—これを知ることが出来ることもやはり科学であることの指標である の確信を得ることができた。


SSHの認証?公開鍵認証でしょ?
個人でVPS使う分には運用面とかでは問題ない
大規模な場合どうするんだ…みたいな疑問
ユーザーごとに公開鍵登録するの面倒スギィ
LDAP?構築面倒...

公開鍵認証
たぶん大半の人が使ってる
サーバーに公開鍵を登録
クライアントは秘密鍵で認証
割愛

証明書認証
公開鍵認証で使用している公開鍵を認証局が署名
認証局の公開鍵を持つホストは証明書を使用して認証を行う

利点
ユーザーの公開鍵をいちいち登録しておく必要がない
ユーザーに有効期限を設定できたり, ログイン禁止(証明書失効)が可能
CAの鍵ペアを作成(CA)
ユーザーの公開鍵に署名するのに使用
 $ ssh-keygen -f ca-key
$ ls
ca-key ca-key.pub
CAの鍵ペアを作成(CA)
鍵ペアを作成(クライアント)
$ ssh-keygen -f id_rsa
$ ls
id_rsa id_rsa.pub
出来上がった公開鍵をCAに提出
提出された公開鍵に署名(CA)
-s 署名に使う秘密鍵(CAの秘密鍵)
-I 鍵識別子. 自由につけれる. 証明書が利用されるとログに残る
 $ ssh-keygen -s ca-key -I KEYID id_rsa.pub
他にもログインユーザの指定や証明書の有効期限も設定可能
id_rsa-cert.pubが出来上がる(CA)
certが付いているので証明書であることがわかる
 $ ls
id_rsa id_rsa.pub id_rsa-cert.pub
内容を確認(CA)
Extensionsには利用できる機能一覧が表示される
 $ ssh-keygen -L -f id_rsa-cert.pub 
id_rsa-cert.pub:
        Type: ssh-rsa-cert-v01@openssh.com user certificate
        Public key: RSA-CERT SHA256:RcQbKKqIhgBzL8qA3gSf6CR3I3j/9Xy4pNz1MnWneac
        Signing CA: RSA SHA256:LwfyPd/G1dra0Egnh8YZ0QPmdwR5MiufJtEZkCOw2KM
        Key ID: "KEYID"
        Serial: 0
        Valid: forever
        Principals: (none)
        Critical Options: (none)
        Extensions: 
                permit-agent-forwarding
                permit-port-forwarding
                permit-pty
                permit-user-rc

証明書認証のみを行う設定(サーバー)
PubkeyAuthentication yes
PasswordAuthentication no
ChallengeResponseAuthentication no
AuthorizedKeysFile /etc/ssh/ca-key.pub
ログイン(クライアント)
証明書は自動的に使用される
 $ ssh -i id_rsa REMOTEHOST
鍵識別子がログに残る
Jul 4 07:44:19 ALCOTT sshd[1480]: Accepted publickey for mrtc0 from 192.168.1.115 port 35212 ssh2: RSA-CERT ID KEYID (serial 0) CA RSA f5:f9:b8:32:40:2b:2f:77:b0:92:26:98:39:78:6e:44

ホストベースド認証
サーバーがクライアントマシンを認証する
クライアント側設定
/etc/ssh/以下に各種鍵ペアが生成される
 $ sudo ssh-keygen -A
ssh-keysign
秘密鍵はroot以外読み取れないために一般ユーザーはホストベースド認証を行えない
そこでssh-keysignとよばれるsetuidされたコマンドが用意されている
/etc/ssh/ssh_configに EnableSSHKeysign yes を追加
クライアント側設定
$ cat /etc/ssh/ssh_config
...
EnableSSHKeysign yes
HostbasedAuthentication yes
サーバー側設定
sshd_configにHostbasedAuthentication yesを設定
/etc/ssh/ssh_known_hostsに「クライアントマシン名 公開鍵」を登録
 192.168.1.118 ssh-rsa ABCD...
IgnoreUserKnownHosts no の場合はログインユーザーの公開鍵DBから読み込まれる
~/.ssh/known_hosts

サーバー側設定(任意)
ログイン許可するユーザーを設定する場合
 $ cat /etc/ssh/shosts.quiv
192.168.1.118 mrtc0


複数要素認証
OpenSSH-6.2からAuthenticationMethodsを使うことができる
複数の認証方式を組み合わせることができる
公開鍵認証+パスワード認証みたいなことが可能
公開鍵認証+パスワード認証
$ cat /etc/ssh/sshd_config
...
PubkeyAuthentication yes
PasswordAuthentication yes
AuthenticationMethods publickey,password
複数のパターンを組み合わせ
AuthenticationMethodsの値をスペースで区切ると複数パターンから認証可能
公開鍵認証orパスワード認証 + ホストベースド認証
公開鍵認証に失敗してもパスワード認証が通ればOK
 AuthenticationMethods publickey,hostbased password,hostbased
公開鍵認証失敗後パスワード認証
debug1: Authentications that can continue: publickey,password
debug1: Next authentication method: publickey
debug1: Trying private key: /home/mrtc0/.ssh/id_rsa
debug1: Trying private key: /home/mrtc0/.ssh/id_dsa
debug1: Trying private key: /home/mrtc0/.ssh/id_ecdsa
debug1: Next authentication method: password
mrtc0@192.168.1.117's password:


AuthorizedKeysCommand
鍵認証を行う時にユーザの公開鍵を探すプログラムが指定できる
LDAPやDBへ接続して公開鍵を取得することが簡単に
MySQLに公開鍵を登録
mysql> select * from authorizedkeys;
+------------+--------------------------------------+
| username | publickey |
+------------+--------------------------------------+
| mrtc0 | ssh-rsa AAAAB ... 0sFdu mrtc0@arch |
| mrt-k | ssh-rsa AAAAB ... PUoe1 mrt-k@ubuntu |
+---------------------------------------------------+
鍵検索スクリプトと設定
$ cat /usr/local/bin/findkeymysql.sh

/usr/bin/mysql -ussh authorizedkeys -sNe "select publickey from authorizedkeys where username='$1'"
$ cat /etc/ssh/sshd_config
...
AuthorizedKeysCommand /usr/local/bin/key.sh
AuthorizedKeysCommandUser %u
Googleが提供するワンタイムパスワードを使用する
PAMのモジュールとして提供されている
libpam-google-authenticatorをインストールしておく
Pluggable Authentication Module
認証モジュール
PAMのAPIを通してPAMモジュールに認証処理を任せれる
必要なモジュールを組み合わせることで柔軟な認証を設定可能
長いので割愛
サーバー側の設定
$ cat /etc/ssh/sshd_config
...
PasswordAuthentication no
ChallengeResponseAuthentication yes
UsePAM yes
サーバー側の設定
デフォルト4行の上に追記
UNIXパスワードの前にOTPが聞かれる
 $ cat /etc/pam.d/sshd
 auth required pam_google_authenticator.so
 auth required pam_unix.so
 auth required pam_env.so
サーバー側の設定
ログインするユーザーのホームディレクトリにルールやシークレットキーを保存
スクラッチコードは安全なところに
 $ google-authenticator
   Do you want authentication tokens to be time-based (y/n) y
   <Here you will see generated QR code>
   Your new secret key is: xxxxxxxxxxx
   Your verification code is 1234567
   Your emergency scratch codes are:
     xxxxxxxx
     xxxxxxxx
     xxxxxxxx
     xxxxxxxx
     xxxxxxxx

   Do you want me to update your "/home/username/.google_authenticator" file (y/n) y

   Do you want to disallow multiple uses of the same authentication
   token? This restricts you to one login about every 30s, but it increases
   your chances to notice or even prevent man-in-the-middle attacks (y/n) y

ピケティ



ピケティのいう「資本主義の根本的矛盾」r>gは、経済学者に評判が悪い
なぜなら最近200年のうち100年が例外になっている法則が、法則といえるのだろうか。ここでrは資本収益率、gは成長率だが、ラムゼー的な最適成長理論では、図のようにrは資本減耗率dKに等しくなり、これはgに等しくなるので、r=gの状態で永遠の未来までの消費の積分が最大化される。これが黄金律である。
f:id:isoiso175:20150703001227j:image

ピケティもこれは知っており、「黄金律が実現するメカニズムは存在しない」と否定しているが、彼の「根本的矛盾」が生じるメカニズムも明確でない。しかしこれを次のように考えることはできないだろうか。

ソローの理論は「新古典派」と名づけられているが、貯蓄率が内生的に決まらないので新古典派的ではない。むしろ貯蓄=投資となる状態を長期的にみた長期ケインズ理論と考えたほうがいい。この状態で均衡すると、所得は最大化されない。

経済が定常状態に達すると成長が止まり、生産性(TFP)上昇率が成長率に等しくなる。このため先進国で21世紀の成長率は1.5%程度になるというのがピケティの予想だが、資本収益率が無限に上がることはありえないから、どこかでrもピークアウトするはずである

それは資本がそれ以上蓄積されても投資収益が増えない潜在成長率である。これはマクロ統計でいうと、GDPギャップがゼロの状態だが、ソローの定常状態に近く、ここで貯蓄率が調整されて資本/所得比率βが最適化されると黄金律に近づく。

つまりピケティのU字型カーブ(資本分配率が20世紀なかばに下がって後半に上がる)は、ソロー的な定常状態からラムゼー的な黄金律への移行と考えることはできるだろう。戦争で資本が破壊されてβが下がり、平等な定常状態が70年代に実現するが、ここでは黄金律に比べると資本が稀少なのでrが上がる。これによってβも上がり、収穫逓減でrが下がる。それがgに等しくなると黄金律が実現して、資本蓄積は止まる。

こういうメカニズムが働いているとすれば、20世紀後半の欧米の不平等化は発展途上国のキャッチアップと似た過渡的な状況で、最終的には黄金律に近づいて安定すると考えることもできる。ピケティも黄金律が実現する可能性は否定していないが、それは非常に資本集約的な水準(βが10以上)と考えている。これがもう少し現実に近い値(5~7)であれば、近いうちにピークアウトすることになる。

ソローモデルについての考察

 r (資本からのリターン)が g (経済成長率)よりも大きくなるのはどういうときか? という問題をソローモデルで検証する
 まず、通常ソローモデルにおいて想定されているように、生産は資本と労働を生産要素として行われると想定する生産関数は、
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 というかたちのものとする(これは「労働節約型」の生産関数で「ハロッド中立的」と呼ばれる、Y = AF(K,L) という「ヒックス中立的」の生産関数でも、以下の議論のインプリケーションは変わらない)。 Y:生産量, K:(社会全体の)資本, L:(労働)人口, A:知識(技術)です。

 効率労働1単位当たりで考えたほうが(知識+労働者1単位当たりの生産関数や資本で考える)、技術進歩や人口増減の問題を取扱いやすい、効率労働1単位当たりの資本を k とすると、k は
f:id:isoiso175:20150703001830p:image
(t) はそれぞれの変数が時間の関数であることを表している

 知識(技術)の増加率を a ( g と表記されることが多いが、ここでは経済成長率と区別するために a とした)、人口増加率を n とする
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を得る
 生産関数は収穫一定であると想定する、効率労働当たりの生産関数を f(k) とすると、
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が成り立つ
資本の増加率は次の式に従うと想定する
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 これは、貯蓄から資本消耗(δは資本消耗率)を引いたものが、資本の増加分になることを表している

 効率労働当たりの資本 k の変化を見たいので、k の時間微分を考える(以下、時間を表す t を省略する、時間によって変化する変数は、Y, K, L, A )。

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が従い
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を得る
これが効率労働当たりの資本 k の時間変化を表す式になる
つまり

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 均斉成長路では、k は sf(k) と(a+n+δ)k の交点になる。この状態で消費 c が最大になるのは、平衡投資の直線 (a+n+δ)k と、f(k) の接線が平行になるとき、貯蓄率 s が調整され、この消費最大化の状態が達成される k の値は、「黄金律水準」と呼ばれる

 では、経済成長率(生産量成長率)はどのようになるのか、成長率を g とすると
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f:id:isoiso175:20150703003212p:image
ここで
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は生産関数 f(k) の資本に対する弾力性( F(K,AL) の K に対する弾力性も同じ値になる)。これを αk とおけば(通常、αk=1/3 ぐらいと想定される)、成長率は
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f:id:isoiso175:20150703003402p:image
となる

 均斉成長路では、k・ は 0 になる
したがって、均斉成長路の成長率はf:id:isoiso175:20150703003635p:image
この成長率の値は、均斉成長路にいるなら k が黄金律水準になっているかどうかにかかわらず、a+n 

 いっぽう、資本からのリターンを r とすると、r は
f:id:isoiso175:20150703003723p:image


 となる(これは利潤最大化の条件から求められる)。
 経済が均斉成長路上にいて、かつ黄金律水準が達成されているなら(つまり、貯蓄率 s が調整され消費が最大化されるように調整されるなら)、f(k) の接線が、平衡投資の直線 (a+n+δ)k と平行になる
したがって、
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であり
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が従う

ソローモデルでは、経済が長期均衡(=均斉成長路上で消費最大化が達成されている)にいるなら、 r = g になる
 しかし、経済が常に長期均衡にいることはなく
また、技術の進歩や人口増加率は変化する。また、経済が長期均衡に至るには時間がかかる(ソローモデルで考えると数十年の単位)。

 そこで、知識の増加率 (a) と人口増加率 (n) に変化が生じた場合を考える(このモデルでは、a と n の変化は同じ影響を与えるので、ここではまとめておく)。つまり、
① a と n が増加した場合
② a と n が減少した場合
の2つの場合がある
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 ① a+n が増加する場合、平衡投資の直線 (a+n+δ)k の傾きが大きくなり(赤い直線)。したがって、k は k* の位置から減少していく、しかし、k は動学方程式にしたがって変化し、そのため、すぐに B のレベル(あるいは E のレベル)にシフトしない、時間をかけてゆっくりと減少していく、消費を最大化する黄金律水準に k が調節されるとすると、k は B のレベルで均衡するのではなくて、少し大きな水準になる(E あたりの k )。

 反対に② a+n が減少する場合、平衡投資の直線 (a+n+δ)k の傾きが小さくなる(青い直線)。したがって、k は D の位置から時間をかけてゆっくり F の位置に移動する

 この場合、成長率 g はどうなるか?



① a+n が増加し、a’+n’ になった場合( a+n < a’+n’ )
 a+n が増加し、a’+n’ になった場合、右辺の第1項、第2項が a+n であるため、その分成長率は増加する、(ジャンプアップする)。そして、a+n が増加すると、平衡投資の直線 (a+n+δ)k が左にシフトする、したがって、第3項はマイナスになり(資本 k はゆっくりとしか移動できず、sf(k) が (a+n+δ)k よりも下にくるため)。第3項はマイナスになるが右辺が a+n よりも小さくなることは、資本消耗率 δ がかなり大きくならない限り、ありえない(αk= 1/3 ぐらいであることに注意)。そのため、a+n の増加が起こった時、g は a+n と a’+n’ の間のどこかのレベルまでジャンプアップすることになる。
 そして、k が左にシフトしていくにしたがって、第3項は、マイナスから 0 に増加していき。そのため g は増加し、a’+n’ に近づいていけ(以下の図では、t = t0 で変化が起こると想定している)。
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② a+n が減少し、a’+n’になった場合(a+n>a’+n’)
 a+n が減少し、a’+n’ になったとすると、その分成長率は減少する(下の図のように、瞬時的に下がる)。そして、a+n が減少すると、平衡投資の直線 (a+n+δ)k が右にシフトする
したがって、第3項はプラスになる( sf(k) が (a+n+δ)k よりも上になるため)。この場合も、第3項はプラスになり右辺が a+n よりも大きくなることは起こらない。そして、k が右にシフトしていくにしたがって、第3項はプラスから 0 に減少していき、そのため g は減少を続け、a’+n’ に近づいていく
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では、資本からのリターン r はどうなるか

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 で、a+n が増加し、k が D から E へ左に移動すれば、f(k) の接線の傾きは大きくなる、したがって r は増加する反対に a+n が減少し、k が D から F へ右に移動すれば、f(k) の接線の傾きは小さくなるとわかるしたがって r は減少する

 この増減は k の移動にともなっているのでg の変化のような不連続のものではなく、少しづつ変化するものとなる
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 となり。f”(k) は k の値によらずマイナス

① a+n が増加し、a’+n’ になった場合( a+n<a’+n’ )
 r の変化の場合は、最初に黄金律水準が達成されていて(そのため r = a+n になる)、変化の後、再び黄金律水準が時間をかけて達成される(そのため r = a’+n’ になる)
 a+n が増加すると、平衡投資の直線が左にシフトするからsf(k)-(a+n+δ)k はマイナス、f”(k) の値はマイナス。したがって、式の値はプラスになるそして、均斉成長路では sf(k)-(a+n+δ)k が 0 になるので、式の値はしだいに 0 に近づいていく、つまり、最初に大きく増加し、次第に増加率が小さくなっていくr は次のような変化になる
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② a+n が減少し、a’+n’ になった場合( a+n<a’+n’ )
 図3から、平衡投資の直線が右にシフトするので、sf(k)-(a+n+δ)k はプラス、f”(k) の値はマイナス。したがって、式の値はマイナスそして、均斉成長路では sf(k)-(a+n+δ)k が 0 になるので、式の値はしだいにマイナスから 0 に近づいていく、最初に大きく減少し、その減少率が少なくなっていく。r は次のような変化になる
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つまり
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成長率 g には a+g の項があります。したがって、a+g が変化すると、その影響を直接受ける(その時点でジャンプする)。しかし、資本からのリターン r は、資本 k のレベルにしたがってゆっくり変化するだけ。a+n が変化すると、先に g が大きく変化し、r の変化は遅れる

 具体的に言えば、知識の蓄積や技術開発が進み、人口増加率が増加すると、成長率はすぐに増加する、しかし、資本からのリターンは、よりゆっくりと増加していく。そのため、g>r という状態が続く、ソローモデルにしたがえば、均斉成長路(長期均衡)に至るには数十年かかる技術進歩が連続し、人口が増加し続けていれば、g>r という状態がずっと続くことになる

 逆に、知識や技術進歩の低下が起こったり、あるいは人口増加率が減少すると、成長率はすぐ低下する、しかし、資本からのリターンはよりゆっくりとしか減少しない、そのため、r>g という状態が続くことになる

 20世紀には、電力化、IT革命など大きな技術進歩が連続して起こり、また、人口も増加しました。ソローモデルから解釈すれば、そのため g>r という状態が続いたと考えられる
 しかし、21世紀に入る前後から、コンピューター化やコンピューターを応用した技術が進んでいるとはいえ、かつての技術革新のようなインパクトのある大きな技術革新が起きなくなっていると言える。また、人口増加率も停滞しているソローモデルにしたがえば、そのためにr>g になったと考えられる

機会があれば生産関数を具体的に定義しよう

七夕伝説

 「七夕」には短冊に願い事を書き、笹の葉につるし、 七夕の晩にだけ逢う事が許された「織姫(こと座・ベガ星)」と「彦星(わし座・アルタイル星)」 に、短冊に書いた願い事をかなえて貰うよう祈る
 この七夕行事の起源については様々な説がある

「1.原始七夕伝承」「2.異郷訪問説話」「3.中国での起源」で、 七夕伝承が生まれるまで、その伝承の伝わり方などについて触れる
 次いで、日本にいつ話が伝わったのか、伝わってから行事になるまでを述べる

概要
 太古、世界樹又は宇宙樹と呼ばれる信仰があり、それは地上と天の中心の北極星とを結ぶ、宇宙の軸としての特別な「樹」であり、地球の歳差運動により、北極星は「こと座のベガ星」から 「こぐま座α星又はβへ」と徐々に移動していった
 ここに世界樹は東西と言う方向に分裂する、東と西それぞれに言わば神が出来た それが「西王母」と「東王父」、この信仰がやがて「織姫」と「彦星」に変化していった そして七夕説話に基づいた乞巧奠を、 宮中行事のとして初めて行ったたのが楊貴妃玄宗皇帝である

 日本へは神戸市博物館所蔵の桜ヶ丘銅鐸に刻まれている「水辺の西王母」からすると まだ銅鐸を造っていた時代に説話はすでに伝わっていたようだ、そして神話の時代には機織りの神:倭文神となったようで、朝廷の織部省にいた 「葛城」という機織集団が説話と何らかの関係を持ったようだ
 最初に七夕の行事をしたのは持統天皇であると言われているが、それは七夕の行事であったのか、それとも亡き夫「天武天皇」の供養で あったのか

時は今から1万3200千年遡る。この頃は氷河期又は氷河期があけた頃で、 歳差運動により北極星は現在の子熊座のポーラスターではなく、 後に織姫星となること座のベガ星だった
仏教やキリスト教が普及する遥か遥か昔では、 世界的な広がりを持つ「世界樹信仰」があった

 この世界樹又は宇宙樹と呼ばれる信仰は、「天地創造のときに、まず1本の巨木が生じて、 この巨木から世界は体系的に作られたとする神話」、この天と地を結ぶ一本の巨木から、 全てが生まれ、又全ての秩序が作られていったとする信仰

この宇宙樹は「地上と天の中心である北極星を結ぶ」言わば「宇宙の中心」 としての役割があった

現在伝わっている宇宙樹信仰では北欧神話の「宇宙樹ユグドラシル」・ 中国では後に「扶桑」と呼ばれるものになって行くまた日本では鹿児島県の「若木迎え」や諏訪大社の「御柱祭」などがある

鳥トーテム
●鳥トーテム
 宇宙樹信仰は、その象徴として「頭の部分に日月・中央部に有蹄類・下部にベビ」 などから構成される柱が、神体として扱われていたようであり、この柱の神体をトーテムと言う。 
 稲作起源は紀元前八五〇〇年頃の中国であるとされているがこの頃の遺跡から稲作に必要な「太陽」「水」「鳥」が描かれた土器が出土される、この中の「鳥」は朝に鳥がさえずり始めることにより太陽を呼び出すとする考えである

 中国の四川省成都の北部で「三星推」と呼ばれる遺跡が1987年に発見された、その遺跡には「青銅製の仮面」など多数の像が発掘されました。 そのなかに宇宙樹信仰を表す「神樹」や「崑崙山模型」があった

 「崑崙山」は言わば「霊山」で、そこには「西王母」が住んでいると言われており 現在残っている道教において西王母は「最高位の仙女」である

 先に述べたトーテムの色々な種類のなかで「鳥トーテム」が、 現在でも中国少数民族西王母信仰の残っているイ族にみられる、この鳥トーテムは一般にシャーマニズムとセットで信仰されることが多い、 鳥トーテムの神体は「鳥竿」と呼ばれ、 竿には柱・竹・竿・棒などが使われあ

 ト-テムと言う言葉は、アメリカインディアンの言葉で「親族」の意味し、母権制氏族社会の発生期に生まれる、 女性が子供を生むのはト-テムが女性の腹に潜り込むからと考えたから またアミニズムとは万物に霊魂があるとする信仰をさす、この霊魂との接触をもつ巫女の総称がシャーマニズムである

 このような意味でト-テムから派生するものの多くは「母権制氏族社会」、 つまり女性が巫女になったり、最高位の神になったりするわけであり、七夕のお話しの場合には後にしつこく出てくる「西王母」が中心的な役割を負っている

●卵生神話
 中国の古代王朝の夏王朝の資料は余り残っていないが、 殷王朝の資料は沢山ある
 殷の始祖伝説では、ある日水浴にでかけた簡狄は、 ツバメが落とした卵を飲んで懐妊して殷の始祖である契を生んだ

 中国ではこのような伝説は感生伝説と呼ばれており、 天の神の孫が地上に降り立ち王朝の始祖となる 天孫民族的な信仰が多い

 このような神話は鳥トーテム信仰のあった東北アジアの部族の間に色々伝わっている 例えば高句麗の祖先の朱蒙(しゅもう)は大きな卵から生まれていて、 清の祖先である満州族のプクリヨンソンは神鵲が落として行った 赤い実を飲んだ天女フクリンから生まれたと伝えられている

 このように鳥は卵を産むことから「鳥トーテム信仰」と「卵生神話」は重なるら鳥トーテムは中国に隣接するロシアやカムチャッカにも分布している

●宇宙樹の分裂
 宇宙樹は「地上と天上を支える軸」とされていて星々の中心に見える「北極星」と「地上」とを結ぶ
鳥トーテムの柱(ポール)は当時の北極星であるベガ星に向かって伸びていたことになる 時代は上記の話の通り夏や殷の頃まで
 宇宙樹は絶対神で、天地を疎通させる宇宙軸上で、 地上と北とを結ぶ南北軸であり、天地を結ぶ上下軸であった

 さて北極星はベガ星であったが歳差運動により天の北極は次第にベガ星より離れていった

歳差運動は地球の自転の向きと反対に地球がコマ振り運動をすることで、約24000年をかけて 一回転し、北極星はもとの星に戻っていく

 この絶対神である宇宙樹が南北軸に対して左右に、つまり東西に分裂をおこしたした

●東母と西母

 殷の王朝は、王が自ら祭礼等を行う神聖王朝であり、 天地自然の現象は帝の支配に属する事柄で、 農耕に関する雨風も帝が祈ることにより秩序が与えられた
その風は鳳の形で表されて神の使いで、その使者の往来は風のそよぎとして感知した
 殷の始祖である舜は太陽神であった、しかし後に太陽神は分離して 「朝の日を迎える朝日の礼」「夕の日を送る夕日の礼」 の2つの行事を行った

 「朝と夕」を象徴する神は東母と西母の二人の女神、 この東母と西母が後に東王父と西王母という対偶神となる

楚辞にヒントがある

 さて王朝の権威の象徴である暦の策定では、殷王朝においては 太陽が10個あったとする十日神話から10日を区切りとした旬日を基本にして、 月相が1巡(約29.5日)する三十日を併用した

 時代が進み周の時代になりますと新月から満月までの 約十五日を単位とする朔望(朔とは新月、望とは満月)の観念が中心となる。 つまり太陽神から月神への変化があっても不思議ではない

すると上記での「東母」が「東王父」に変化するのは「周の時代」とも考えられる

 あと秦の始皇帝西王母と逢う話があるが、殷も秦も始祖伝説を遡ると鳥トーテムに行き着く、その他は例えば夏の竜トーテム。 したがって神話は洪水伝説、高句麗も鳥トーテム。 だから壁画に西王母と織姫の混在したものがある

西王母と東王父
●月と太陽の属性
 さて、地球の歳差運動により、北極星の位置が「こと座のベガ星」から 「子熊座のポーラスター」へと変わってしまったことから 宇宙樹は東西に分裂を起こした
 鳥トーテムの本体である「軸(ポール)」は、東に太陽の象徴である東王父・ 中央には左右分裂を示す水の象徴である天の川・ そして西にはシャーマニズムの要素もある宇宙樹本体はベガ星の位置を保ったまま 西王母へと変化する

 「鳥」は東王父には太陽黒点を表す三羽の烏(又は三足烏)に、 西王母には両者を橋渡しする希有鳥へと分裂

 希有鳥は古代中国の宇宙観である天蓋説(地の上に天が傘のように被っていて、 傘の柄のような軸があり、その軸が回転する事により星が回って見える)の軸の下にいて、 両わきに東王父と西王母を抱えています。  西王母は1月1日と7月7日の年に2度、この希有鳥に乗って東王父に逢いに行く

現在では正月と七夕は別の行事であるが、 この話のように、この頃までは正月と七夕はセットの行事であった

 東王父は、シャーマン的な要素が強く残った影響から次第にその信仰が薄れ行く

西王母は不老長寿の象徴(道教に見られる桃源郷のように桃で表されるもの)でもある そこで月は欠けても必ず元に戻る事から、 場所をベガ星から月へと移動し「不死」の神格化傾向を強めた

 東王父も太陽から二十八宿の1つ「牛宿」へ移り、さらに二十八宿の「河鼓」へと変化し、 最後に現在のアルタイル星へと変化したのではないか


世界樹・宇宙樹信仰
●陰と陽
 分裂して日の沈む西に分かれたのが「西王母」、 太陽の昇る東に分かれたのが「東王父」である 「西王母」は月と女性の属性を持ち、兎や蟾蜍を伴い陰の精を表す駐推前漢墓に描かれてきる。「東王父」は太陽と男性の属性を持ち三足烏を伴う、 空心磚墓にも描かれ「太陽の中に三足烏がいる、それが陽の精である」と云う説明がある
次は西王母と七夕伝承から引用
 西王母は頭に「玉勝」を戴いている。西王母は、元来、ただ一人、 大地の中心である宇宙山(世界樹)の頂点にあって、 絶対的な権力で持って宇宙全体を秩序づけていた。 その秩序づけが、彼女の機を織るという行動に象徴されていた。 西王母は、いわば世界の秩序を織り出していたのである。

だからこそ織機の部分品である゛勝゛がその頭上に載っているのであった。 織機の部品の中でも、特に゛勝゛が選ばれたのは、一人で再生を繰り返す神のありかた (すなわち、円環的な時間の中にある存在)と織機の軸の回転とを重ね合わせて、 その軸の回転を制御する゛勝゛を象徴的に使用したものと推測される。




●東王父
 西王母が陰の要素を濃くしてから、その対照として陽としての東王父ができた、東王父のかぶりものは「三維冠」で゛維゛と 呼ばれているのは天地を結ぶ大綱を指すと考えられている それが「三」であるのは、3と云う数字が太陽神と係わりが深いためである
三足烏や3羽の鳥に引かれた太陽を運ぶ雲車なども「3」の数字
淮南子のゲイのお話から~
昔中国で一度に10個の太陽が出現した、時の皇帝は「ゲイ」という弓の名人を呼んで、 このうちの9個の太陽を射落とした

その射落とした太陽を調べてみると、 9羽の真っ黒なカラスであった

広益俗説弁にいわく
時は垂仁天皇の御代で、太陽は9つ。 武蔵野国入間郡で打ち落とした

八た烏から~
淮南子に「日中にシュンウあり」という記述があり、 このシュンウが3本足の烏であると解釈されている、天照大御神と高木神によって神武天皇のもとに派遣されたヤタガラスは、 天照大御神を祀る神社のノボリに三本足の烏として書かれている

夫婦げんか
 月に住むと言われるガマガエルの正体は 「太陽を射落としたゲイ」に西王母が不死の桃をあげようとしたところ、 サット盗んでいった東方朔が月まで逃げていってガマガエルになった話もある
 ゲイが「三足烏を打ち落としたご褒美」とは、つまり「陰であり月である西王母」と 「陽であり太陽である東王父」とが夫婦げんかをしている話

 七夕伝承の1つに、夫婦喧嘩をして牽牛と織女が物を投げ合う話がある

牛郎は牛の鼻輪を投げたのが織女三星。織女は機織りの道具の梭を投げる

それが河鼓・鷲座三星



織女三星はこと座のLyr3α星(ベガ) Lyr4ε星 Lyr4ζ星

河鼓三星はわし座のAql53α星(アルタイル) Aql50γ星(タラゼド) Aql60β星(アルシャイン)の鷲座3星


注記


 古代中国:殷の時代の宇宙観では、太陽は全部で10個あり、毎日交代で空を廻る。 それぞれの太陽に甲乙丙丁など十干の名があまして、それを司る10人の神巫がいる、太陽は東方の扶桑の木の枝からから昇って、西方の若木を経て、 地下の虞淵にほとぼりをさます 旬もこれに由来する

 北欧神話に出てくる宇宙樹ユグドラシルは、全世界を貫いて生えている、 ユグドラシルには三本の根があり、それぞれ「神々の国」「霜の巨人の国」「霧の死の国」 の3つの世界へと伸びている
 「神々の国」の根の下にはウルドの泉があり、そこには3人の運命の女神がいて、 ユグドラシルが枯れないように世話をしている 「霜の巨人の国」の根の下にはミーミルと云う智恵の泉があり、 最高神となるオーディンはこの水を飲むため片目を失う、「霧の死の国」の根の下にはフヴェルゲルミルの泉があり、 ニドヘグと云う毒竜がユグドラシルが枯らそうと根を噛っている

 主神オーディンと悪神ロキとの戦いの時にユグドラシルは燃え、 大地は海中に沈んでしまう、これがラグナロク

殷の契の怪誕説話
 帝の高辛氏の妃の簡狄が春分の日に春を迎える行事が終わった後に、 妹と川辺を歩いていたところ1羽の燕が空に飛んでいた、 その燕は口にくわえていてた五色の卵を二人の間に落とした姉妹はその綺麗な卵を取り合ったが、簡狄が「これは私のよ」と言うと口の中に押し込み飲んでしまった
 やがて彼女は身篭り、月日が立ち胸が剖けて男の子が生まれました。
 これが契で後にギョウに仕えました。(史記,拾遺記)(竹書紀年)
周の武王の怪誕説話
 帝の高辛氏の妃に,姜源という女性がいて、 帝と一緒に神を祭っていると大地に巨大な足跡がついていた 彼女はその足跡を踏んで見たらやがて身篭った

二十八宿は中国の星座区分で、インドの二十七宿から来ている
 月が1つの宿に一泊ずつ止まり28日で一巡する、その中の星座で七夕に関係するものを抜き出した
 「須女」が「織女三星」に、「牽牛」が「河鼓」へ変化したのであろうと言う説は 天の川に相対する2星であるからとする理由そうであると仮定すれば、二十八宿西王母信仰とどちらが先なのか

牽牛

 この6星は、天の関所・橋のことで、祭りのときに供える犠牲を司る
 上の星は道路を管轄。次の星は関所・橋・梁を管轄。その次の星は南越地方を管轄 する
その他「牛は日の神に捧げるもの」「羊は月の神に捧げるもの」である
須女
 この四星は天の衣食を司ります。「須」とは布を織ったり、 裁縫をしたり、嫁入りの世話をする意味がある
○天津
 この九星は「天の川」の中にあり別名「天漢」「天江」とも云います。
長江・黄河・淮水・済水の四大河の渡場・橋を司るそうです。 この天津はカササギと関係があるのか。 また同じ「橋」を司る牽牛がどのようにかかわるのか また天の川は東方に始まって、尾と箕の間をとおり、2つの道に分かれ南の道は傳説(ふえつ) ・魚・天やく・天弁・河鼓をとおり、北の道は亀・箕の下・南斗の頭と左旗とをつなぎ、 天津の下で南の道と合流するとある
○農丈人・中国の科学 世界の名著 中央公論社より引用
 農丈人とよばれる一つの星は、南斗の西南に位置している。老農であって、 穀物の収穫を管轄する。狗と呼ばれる二つの星は、南斗の東部のまえに位置している。
 吠えついて家を守のが仕事である。天田とよばれる九つの星は、 牛の南に位置している。羅堰(らえん)とよばれる九つの星は、 牽牛の東に位置している。大きな馬である。それで雨水をせきとめて蓄えておき、 溝(変換不能文字A)にそそぐのである。九カンとよばれる九つの星は、 牽牛の南に位置している。カンとは溝Aのことである。 源泉から水を導いて満々たる水を流し、溢れる水を注ぎ、田畑の溝に通すゆえんである。 九カンのあいだにある十の星を天池という。別に三池ともいい、また天海ともいう。 田畑の灌漑にかんすることがらを管轄する。
○農業
 ショクの五つの星は七星の南に位置して、農業を司ります。 百穀の長たる「きび」の官職の名をとった
 二十八宿星図はおよそ283官、1464星ある 史記などは星座に役所名がついていたこれでは神話の記録があまりない 神話の生まれる時代と諸子百家の時代とが同居している、 又は中国の方は実利的で神話は真面目に扱われなかったのだろう、兎に角神話・伝説・伝承の記述が少ない


七夕の伝承ルート
●異郷訪問神話
 タイの神話の中に、インドが起源ではないかとも思われる「異郷訪問神話」がある「天人女房」と「浦島太郎」が1つの話になっている神話、 この中の「天人女房」の説話が「天人女房」と「竜女説話」に分離する
 分かれた後の「天人女房」説話は、色々な難題を課せられる「難題型」・ ニつの星に別れ別れになる「七夕型」・北斗或いは昴の7つの星のうち一つが帰らず 地上の王家の祖先となる「七星始祖型」の3つに分類される

 これらが【雲南省から北上して中国へ】その【中国南部から更に南下してベトナム・ フィリピン・ルソン島へ】と伝わっている

「浦島太郎」は民話の分類としては「豊穣、或は、富をもたらす民話」

異郷訪問神話の名称・伝説の比較

ストン王子 Sudhana Phra Suthon Zhao Shutun 召・樹屯
マノーラー姫 Manohara Nang Manora Nan Muluna 喃・(女若)娜
北パンチャン国 Uttra-pancala Uttarapanchan Banjia 板加


●伝播
 インドの「スダナ・クマーラ・アヴァッダーナ」の説話が、 タイの「ストン・チャードク」としてほぼ忠実に説話が伝わり、 説話が伝承された地域で、もともとあった説話と融合分裂を繰り返した形跡がある
 現在タイ南部舞劇に「Noraノーラ-」と云う劇がある、これとほぼおなじ説話である中国の西双版納の舞踏は「孔雀の舞い」という、このように異郷訪問神話はインドから稲作の発祥の地「雲南省」へと伝わったと思われる、ただし説話が全く逆のルートで中国からタイへ、そしてインドへと伝わった可能性も否定できない



異郷訪問神話と羽衣伝説
●羽衣伝説比較表

比較 タイ国 中国
始まり 竜王が猟師に命を助けられる 男が動物を助ける
水浴 竜王の手助けで 動物に教えられ
飛来 池に飛んできたキンナリーを捕らえる 沐浴中の天女の羽衣を隠す
天女 キンナリーの一人マノーラーを妻とする 天女を妻とする
子供 なし 子供が生まれる
帰る 誹謗にあい殺されそうになり翼と尻尾を帰して貰いカイラートに帰る 羽衣を手に入れ
追跡 マノーラーの教えた方法で後を追う 天まで追いかける
結末 父の難題を解決して再び夫婦となる 難題型・七夕型・七星型
●伝播
 まずタイの「竜王
生産的な農耕の方法を見つけて国が豊かになり、 隣国の王に妬まれて殺されそうになる、この「生産的な農耕の方法」とは何の事であるかは わからないが、豊穣を意味する話になっている
 中国ではこのタイの「竜王」が竜女伝説や竜王伝説へと独立する。 浦島太郎では竜宮城へ行くが、お土産の玉手箱は、財宝又は豊穣を意味する

 次に「夫が天まで追いかける」方法ですが、中国では「天女に抱えられ一緒に行く」 「助けた動物の皮を使って飛ぶ」などに変化している

「難題型」「七夕型」「七星型」への変化です

●変化
難題型は天女の親から無理難題を課せられて、 助けた動物から知恵を授かり難題を解決してゆく等の話で、 解決できないで地上に帰れなくなる話もある
七夕型は難題が解決できないで、二人が7月7日に一度しかあえないもの。 3月に一度を3年に1度に聞き違えてしまうものなどがある
七星型は天女が7人降りてくるが「北斗七星の七」と「昴の七」の話があるようで、 昴の七は、天女の一人が王族(七夕始祖型)となり星の数が六になったものがある
●三体機能と二極対立
 この変化の中でインド・タイに於いては「知」「力」「豊穣」のインド・ヨーロッパ語族の特徴で ある三体機能があるが、中国に渡ってからは天上と地上の二極対立へと変化する、ここに訪問説話が「竜女」「浦島」「七夕」などへと分離していく理由がある


●異郷訪問伝説と星型羽衣説話
 異郷訪問伝説はインドからタイに渡った時点から「星」を加味した話へと変化していった
表:「日本民間伝承の源流」より抜粋引用
比較 インド タイ
国王 大いなる財 太陽
王妃 不明 月の女神
人数 5百人 七人の姉妹と侍女千人
飛翔力 宝玉のかんざし 翼と尾
夫が後を追う時間 不明 七年七月七日
王妃との再会 不明 七日間
 伝承がタイに入ると全体に聖数の7が多くみられる、また国王と王妃は太陽と月、 7人の姉妹は「太陽」「月」「火星」「水星」「木星」「金星」「土星」を象徴している

またインドでは飛翔力は「かんざし」で国王の「大いなる財」に掛かっているが、 タイでは国王は「竜王」であるので「翼と尾」に変化している

 夫が後を追う時間では、夫の地上時間は7年7月7日だが、天女の天上時間では7日であって、浦島太郎現象が起きている

こうした伝承は一度に伝わるものではなく、間隔を置いて波状的に何度も伝わるのが通例であるからその伝わった時代の状況で話が変化していく

中国における分布
●星型羽衣説話の中国における分布
七夕型は七夕説話と羽衣説話が融合したもので揚子江より北方に分布
七星始祖型は七星と始祖伝説が融合したもので揚子江南の主として沿海地方に分布(始祖型のみのものは北にも伝承している)
難題型は天女を追って男が天に行き、天女の父から何か難題を課せられるもので、西南少数民族の大部分・広東・福建・山東・東北 蒙古など広く分布
 このなかの難題型の難題の種類だが、漢族では虫や蛇の害、少数民族では力試しや知恵試し、 山地民族は焼き畑の全過程がある農耕や虫害と云った項目が多いのが目につく「捜神記」や壮族の話には「田」「稲」等も出てきていて、 焼畑・稲作の両文化が共存しているようにも見える 始祖型のみの分布からみてやはり伝承は北上していった気配がある

 タイから中国に伝承が入った地域が少数民族の多かったことから 伝承が様々な形に変化していった

伝承経路
●七夕の3つの説
七夕の伝承は大きく分けて3つの説がある
農業生活を上代漢民族で、2星が接近する7月の男女相思の説話であるとする説
五穀豊穣の神事祈祷の生命力を象徴する穀神(神牛)と豊穣の女神との会合が牽牛織女の伝説になったとする説
西王母と東王公が分裂し、二星の会合は宇宙の再生を意味するもので、その信仰が薄れ牽牛と織女になったとする説。
●民話の伝承経路
 七夕に関係すると思われる民話の経路を「民族学」の本で探して見れば
インド--モンゴル--アルタイ--ブリヤート・ヤクート

モンゴル--中国-----ブリヤート・ヤクート

インド--タイ--中国--ブリヤート・ヤクート

 以上のような経路が考えられ通常の伝承経路の説(1920-1930年代)は、 上記の図と逆さまの経路で、アルタイ語族印欧語族へ牧畜文化とともに影響を与えたとされている しかし最近の説(S60ぐらいから)では秩序だった農耕文化が牧畜文化へ影響を与えたとする考えが 多く出てきている伝承は西から東の方向

●民話の伝承経路

 民話などの伝承はブリヤートやヤクートに集まる傾向がある 民話はこの地において一番原形をとどめた形で存在することが多い
 またこの地の神話は日本神話に非常に良く類似している

●三神一体
 インド・ヨーロッパ語族には共通の神界の構造や 特徴(フランスのジョルジュ・デュメジルの説)がある。 この印欧語族のうちにイラン系譜遊牧民がいて 彼らの遊牧文化を継承したのがアルタイ系の遊牧民である
 「三神一体」の神話 (例えばギリシア神話のモイライ運命の三人の女神などのようなもの)は、 このような経路で西から東へと伝わっていった

日本は原始アルタイ語族に属しますので、日本神話とギリシア神話が似ていても 不思議ではない。 七夕の「牽牛」「織女」「天漢」の構造は、 この「三神一体」から来ているとも見れる 


牽牛と織女
●信仰の変化
 世界樹から分裂した西王母と東王父は、春秋戦国時代に至りその信仰が次第に薄れていく、宇宙軸は機織りの部品にデフォルメされて伝えられ、 七夕や月中の織女の話などが 混ざり合ったのではとも思える
 もともと西王母には機織りの神としての役割があったのかは未だ分からないが この時代の壁画などには機織りの道具を持っているものもあり、この時代に、牽牛はアルタイル・織女はベガに割り当てられたと考えられる
 秦の時代になり鉄器文化となり、又、灌漑事業が進み、男性は牛を引いて田を耕す、 女性は機を織る図式が出来るとともに現在に残る七夕の話が完成したのではないかと考えられる

七夕説話の完成
 さて七夕の起源は早くとも春秋戦国時代の中期、完成は後漢の末期であろうと思われる 農耕の発達・書物・天体観測の3点で話す
●農耕の発達
 中国での農耕の始まりは非常に古い、鉄器の農具は春秋戦国時代に普及し、また灌漑農業は漢の時代になる、この頃にほぼ農耕の手順などが確定した、男性は牛を引き農作業、女性は桑を育て蚕を育て機を織る図式が出来た。 宗の時代になると農作業の手順が「絵」によって表されて来る
 七夕の土台となる「牛引き」「機織り」は、灌漑農業が出来た漢の時代前後から更に遡ると農作業の定形として一般化していないように思われる一般化していなければ、 七夕伝説の普及は難しい

詩経の小雅大東の詩

 漢 かわ は、以前の説明の通りに、漢水を指す説が最有力
牽牛は、史記天官書に「牽牛は犠牲を為す。その北に河鼓あり。河鼓の大星は上将にして、 左右は左右将なり」とありますので、牽牛は二十八宿の牛宿を指していて、 その北の河鼓が現在の牽牛(アルタイル)らしい。「将」とあり、七夕とは関係ない
この書物は漢代
 織女星は、同じ書に「織女は天の女孫なり」、春秋緯元命包には「織女の言いたる神女なり・・・」と 詩経の話に準じている、この中で「織女は瓜果を主どる」とあるので、供物を供える元かと思われる、晋書天文志(後漢末期の三国時代の後の晋)では 「織女3星は天妃の東端にある天女である。果瓜糸綿珍賽を司る・・」と「糸・綿」が出てくる

 具体的な七夕の説話が本に登場するのは、梁(502-556)の荊楚歳時記に七夕の説話は完成している、春秋戦国時代に既に説話はあった事になる。 その後カササギの話などがつけ加わり後漢末期に、ほぼ現在の形になった、但し荊楚歳時記には、七夕の話の骨格のみで、付随的な話が省略されていたとすると、 この考えは覆ってしまうが、また荊楚歳時記は当時の風俗を述べた書で、 作者の創作を語っている可能性も多分にある

天体観測(7月7日)
 牽牛星織女星が7月7日に接近するのは目では観測不可能、長焦点の望遠鏡とカメラが必要、それと太陰太陽暦での7月7日なので現在の暦に直しますと6月から9月まで幅がある、初めて視差の値が観測されたのは1838年
 天文よりは陰陽五行説から7月7日の「ぞろめの奇数の日」が当てられたと考えられる

漢代の話
●客星であった張騫
 天の川の源流を探し出せ。との漢の武帝の命を受け武将張騫は、舟に乗り天の川を遡っていった。 数カ月後に何ことも知れぬ地に辿り着き、ふと川岸を見ると、一人の女性が機を織っている。 その傍らには一人の翁が牛を連れ立っている。 此処は何処かと尋ねると「ここは天の川で、我々は織女星牽牛星です。貴方は誰ですか?」 と問い返され、張騫は「私は武帝の命令で天の川の源を探りに来たの者です」と答えた
 すると二人は「此処が源です。そろそろ引き返された方がよいでしょう」 張騫はその言に従って引き返し、武帝にこのことを報告した。

 このとき天文官が「7月7日に、天の川に大きな客星が出現してします」と上奏し  ・・・と話が続く

 張騫は牽牛織女の逢う7月7日に、天の川の源流まで辿り着いた、それを下界から見た天文官には張騫は客星に見えたわけだ

 漢の武帝の頃はBC140年頃です。ローマのプリニウスの本に、BC134年7月、 さそり座で新星が現れた記述がある

乞巧奠
●乞巧奠
 唐の玄宗の時代になり、織物の上達を願う乞巧奠と言う祭りが7月7日に行われ、 七夕は「星祭り」として確定していったと思われる
 祭りの日が7月7日に決まったのは、陰陽五行説に基づいており、 陽の数が重なった日である7月7日に、 互いに強く慕い合う牽牛・織姫の2つの星がその日だけ会えるという説と、 七夕と乞巧奠(女子が裁縫や手芸の上達を願う上代に行われていた風習)とが結びつき、 願いが叶えられるという意味で両星を祀り、 裁縫や手芸の上達を祈るという1本の行事となったと言う説もある
 七夕は7日で七日月(上弦の月)で星見に月明かりが邪魔にならないで、 しかも夜半には夏の大三角であるベガ・アルタイルの位置も見やすく、 農作業もひまなときなので好都合だったのだろう

 因みに七夕とは中国語であり、日本では棚機(たなばた)をそのまま七夕の訓としたもの

 唐の玄宗皇帝といえば傾国の美女楊貴妃楊貴妃は華清池に湯を賜り、 天宝十載(751)7月7日、麗山の離宮にある長生殿において比翼連理の誓いを結んだ、「比翼連理」とは白楽天の「長恨歌」によって一躍有名になった言葉で、 天上では翼のついた二羽の鳥、地上では枝がくっついた二本の幹のように、 夫婦の深い契りを言う

●乞巧奠の行事
 7月7日の牽牛と織女が相会する夜に、夫人たちは7本の針に5色の糸を通し庭に むしろをしいて机を出し、酒、肴、果物、菓子を並べて織物が上手になることを祈った
 織女、牽牛伝説に関連し乞巧奠の行事が生じ、日常の針仕事、歌舞音楽の芸事、 そして詩歌文字などの上達を願う行事へと発展した

 このように中国では七夕の行事は唐の時代より盛んになり、 玄宗が長生殿に遊興に出かけたときに女官たちが乞巧奠を行ったのがはしりといわれている

日本では孝謙天皇天平勝宝7(755)年に宮中で行ったのがはじめとされている



素晴らしき日々 とウィトゲンシュタイン

 『素晴らしき日々』の雑感


 "Tell them I've had a wonderful life."
―Ludwig Josef Johann Wittgenstein
 『素晴らしき日々』という題名の元ネタはおそらくウィトゲンシュタインが死ぬ間際に言ったとされるこの言葉だろう。
この作品はある一つの肉体をめぐり、複数の意識が水平的に並列し、やがて収斂した意識が存在の深層とも言うべきアラヤ識へとトートロジー的に垂直方向へ沈んでいくことで初めて成し得る物語である。肉体は本来、本作の真の主人公である間宮皆守に帰属していた。だが、仇敵である弟の間宮卓司と年上の幼なじみである水上由岐を不慮の事故で失い、その精神的打撃が現代医学で言う多重人格障害という形態で皆守に表出した。多重人格障害は近年、特にアニメやゲームにおいて主題に挙げられることが多い。プレモダン期に世界を保証していた神を失い、自己言及により独我論的に自我を自己決定していく論理も効能を失い、ポストモダンにおいて無意識に内在していた文化の構造が我々を規定していたことが露呈した現代において、若者は終わりなき日常の中で生臭いペシミズムを発酵させ続けている。彼らの実存の処方箋としてポストモダン社会に提出された理論もまた救済には至っていない。
たとえばデリダ脱構築のように自己をその文化の構造からズレた座標軸に定位させるか、ドゥルーズ=ガタリのようにスキゾ的に無根拠かつ軽やかな生を飛び回ることは、その原理において不可能なのだ。なぜならそれらが理論的に証明された時点で逆説的に文化の構造が若者を相対性において照射し、因果に内在する論理のクビキに縛られ続けるからである。ここにおいて多重人格障害は、実存の危機に対する一種のスケープゴートとして「ここにない自分」や「自我からの脱出」というテーゼへの憧憬と相成り、若者の最早実存と呼ぶにはあまりに頼りない存在者としての存在を反映する鏡として熱狂的に支持されているのではないかと思われる。『素晴らしき日々』の皆守の多重人格障害において、その内的要因は皆守が彼らの意識を無意識的に取り込むことで死を無化し、自らの肉体を死者の魂に喜捨するという共有共存という形を取った砂上の楼閣の如き脆弱な贖罪を表徴している。これにより皆守の魂は強大な実存的質量を備えた卓司の魂によりマヤ識にまで沈殿させられてしまい、意識の、そして「意志」のアイデンティティをめぐる形而上の闘争が展開される、というあらすじである。ここで、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』や、エミリ・ディキンスンの『脳は空より広いか』の一節が本作の通奏低音である「世界の限界に関する議論」として度々登場し、象徴的なモチーフとなる。
「論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある」
「私(あるいはこれを読むあなた)は世界に属さない」 
「世界の意義は世界の外に出なければならない。世界のすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。 世界の中には価値か存在しない」
「世界は私の意志から独立である」 
「仮に我々の望む全ての事か生起したとしても、そのことはやはり、いわは運命の恩恵にすきないのであろう。 何故ならは意思と世界との間にはその事を保証するような論理的な連関は存在しないからである」


僕たちの頭はこの空よりも広い……
ほら、二つを並べてごらん……ぼくたちの頭は空をやすやすと容れてしまう……
そして……あなたまでをも……
ぼくたちの頭は海よりも深い……
ほら、二つの青と青を重ねてごらん…
ぼくたちの頭は海を吸い取ってしまう
スポンジが、バケツの水をすくうように……
ぼくたちの頭はちょうど神様と同じ重さ
ほら、二つを正確に測ってごらん……
ちがうとすれば、それは……
言葉と音のちがいほど……
——エミリ・ディキンスン『脳は空より広いか』
「世界」は、すなわち「この今の私の限界」であり、私は「私」以外の何ものの世界を往来することも出来ない。それは本質的に人間が認識論的文脈において孤独であり、誰かと繋がることは永久に出来ないという諦観と絶望が『素晴らしき日々』における「語り得ないもの」として一貫している。しかし存在論的次元において、「あなた」という呼びかけそのものが、私の世界内という制限において逆説的に私の存在を保証しているということに皆守は気付き、そこに一縷の希望を見出して物語は終わる。すなわち、コミュニケ―ションが「この私はあなたが私の世界内において存在していることを知っている」という懐疑に満ち満ちた存在論的定冠詞の前提を抜きにして、「あなたはここにいる」と発語し、またそれを認識出来るということは、人間を人間として認識したから呼びかけという因果関係に沿ったのではなく、「呼びかけた」、その事実そのものが人間を人間として無前提、無条件に了解しているということであり、ここに魂の実在性を皆守は認めるのである。
まさしくそれは『ヨハネによる福音書』の「太初にロゴスありき」が表徴する実在性であり、私という世界は私の言葉の響きにその臨界を措定する。実存が本質に先立ち、言葉は世界に先立つ。世界が「光あれ」の発語で自己展開したならば、世界よりも先に言葉があったはずである。いわばそれは世界のア・プリオリな経験であり、無意識の実相である。「あなた」と呼びかけた人称概念、その言葉こそによって「私」がまた私の世界内において生まれ落ち、どこまでも存在を分節していくこととなったのである。

では「光」の表徴とは何か。暗澹たる無規定、無秩序のコトバによる存在者の可能性のみが存在するアラヤ識の宇宙に、「C’est mon panache!」という言葉が存在を貫通し、世界に本来性を設置せしめ渾沌の極北を照らし上げる。「光」とは「旋律」である。コトバは「意志」により旋律となる。皆守の肉体に内在する幼なじみ、水上由岐の高らかな宣言により、皆守自身、もとい彼に内在しているかもしれない私たち自身は懐疑を乗り越えて存在に魂を認め、「語り得ない」超越性へ「祈る」という行為を続行していく、その営為そのものに意味を認め、存在者は現存在へとアップデートされるのである。その命題、魂が発するミームとも言うべき唯一の「意志」、それが「幸福に生きよ!」というヴィトゲンシュタインの絶唱へと接続されるのである。
そしてそれを十全した神経質の人間嫌いであり、超越性という世界外存在とも喩えられるべき「語り得ないもの」としての倫理に頭突きをし続けたこの男は、最後にこう呟くのだ。

“Tell them I’ve had a wonderful life.”

素晴らしき日々」は常に私とあなたと共に在る。たとえ私とあなたが世界を共有することに能わず、不連続な存在だとしても。彼はそう祈って、静かに眠りに着いたのである。

では、内容について


まず、Down the Rabbit-Hole STORY:BやIt's my own Inventionにおける主題は「懐疑」とまとめられる。It's my own Inventionは外界への懐疑とそれによって逆説的に強化される「卓司」の確実性といった二面性はあるものの、その破滅的結末を考えると、その懐疑的側面(のマイナス面)が中心になっているとは言えるだろう。Looking-glass Insectsでは、冒頭のざくろと卓司(人格的には皆守)の会話に象徴的なように、「意志/勇気」という主題が導入されはじめる。すなわち、その冒頭で示されているのは、意志で自らを変化させることができない=己の確実性に至れない「皆守」の"鏡"としての「ざくろ」ということだが、この断章における分岐が結局のところざくろの「意志/勇気」の向かう方向性に依っていることからもこのことはわかる。つまり、それが現実の懐疑に向かえばアタマリバースENDになるし、希実香との共闘に向かえばざくろHAPPY ENDとなる。この章におけるそれぞれのENDは明確にこの作品の持つ二項対立―懐疑と肯定、不変と変化、終わりとその乗り越え…etc.―を示していると言える。だからこそ、この断章が全六章のうちの第三章―折り返し地点/分岐点―なのだろう。Jabberwockyでは、皆守は夢の中で由岐と精神鍛錬をするわけだが、この話は完全にウィトゲンシュタインの『確実性の問題』におけるムーア命題*1(ex.「私はここに手がひとつあることを知っている」等*2)の扱いと同じである。ムーア命題の奇妙な点の一つは、マルカムが『ムーアと日常言語』で主張したのとは全く反対に、日常このような命題を述べて知の主張をすることはない、ということである。ウィトゲンシュタインは、ムーアも懐疑論者も外界の存在証明はムーア命題に収斂すると考えているが、そこに両者の錯覚が存在すると考え、以下のように述べている。

 私はこう言いたい。ムーアは、彼が知っていると主張することを、実は知っているのではない。ただそれはムーアにとって、私にとってと同様、ゆるがぬ真理なのである。それを不動の真理とみなすことが、われわれの疑問と探求の方法を定めているのである。(151節)
 (これらの)命題は、われわれが営む言語ゲームの体系全体の基礎にあたるものである。この想定は行動の基盤であり、したがって当然思考の基盤でもある、と言える。(411節)
 言語ゲームの根底になっているのは或る種の視覚ではなく、われわれの営む行為こそそれなのである。(204節)
ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』
ムーア命題で述べられているような「確実な」知は、われわれが/私がそれを"生きる"知なのである。いわゆる懐疑論が不可避な理由は、知識や真理は根拠や正当化をもつ限りにおいて知識や真理である、という考えに由来すると言えるだろう*3。しかし、それはウィトゲンシュタインの用いる区別でいうならば、「原因」を問う場面において「理由」を問うているような、カテゴリーミステイクによって生じているのだ。我々は「何故手があると知っているのか」という問いに対して、その「原因」(本能、習慣付け…etc.)を答えることはできても「理由」を答える事は出来ない。

「いかにして私は規則に従うことが出来るのか」もしこれが因果関係に関する問いでないなら、それは私が現にこのように規則に従っていることを正当とする根拠の問いである。正当化の根拠を尽くした時、私は固い岩盤に突き当たってしまい、私の鋤は跳ね返される。そのとき私はこう言いたくなる。「ただ私はこのようにやっているだけなのだ。」(217節)
我々が普段生きているとき、そのような自明なことはわざわざ口に出して言う必要は通常ない。だからこそムーア命題が奇妙な命題に思える。普通だったら「私はここに手がひとつあることを知っている」などと言わずに、「手がある」とだけ言うだろう。逆に言えば、ムーア命題を宣言することに何かしらの意味があるとすれば、その役割は世界内の対象についての事実の伝達ではないということだ。では、ムーア命題の宣言が問題になるような場面とはいったいどのような場面なのか。それは、「手がある」ことが、あたかもあひる-うさぎの反転図形のように捉えられるような場面である。あひる-うさぎの反転図形について、それが反転の可能性があることを踏まえた上で言及されるとき、「(私には)あひるにみえる」「(私には)うさぎにみえる」と言われ、決して「あひるが見える」「うさぎが見える」という風には言われない。このような言明で行われているのは、「私は(この図形を)あひる/うさぎとして取り扱う」というある種の態度の宣言なのだ。同様に「私はここに手がひとつあることを知っている」と言うことは、「世界の中に手が存在する」という事実を伝えるものではなく、言うなれば、「私の世界」を伝えるものなのだ。この無根拠で最大限確実な命題を「私」の名において引き受ける、ということ。ここにおいて、はじめて「心」あるいは「魂」が現れる。
「心」が現れるとはいったいどういうことなのか。それは、まず第一には「心」に関する概念を持っているということになる。「心」に関する概念とは、たとえば「痛い」だとか「考える」だとか「思う」だとかいった概念だ。こういった「心」に関する言葉は、必ず「私」という一人称だけではなく、二人称・三人称でも使われるが、その使い方は明らかに違う*4。端的に、あなたの痛みを私は感じられない。それは人称概念は非対称的だと理解することである。しかし、それだけではない。あなたの痛みを感じられないからといって、「あなたの痛み」という言葉が全く使えないかといえばそんなことは全然ない。むしろ、日常生活では全く問題なく使われている。それはすなわち、自分は「私」ではあるが、そこにいる「あなた」というのも「あなた」からみれば「私」なのだと理解することである。そのように非対称的ではあるが、それが結びついているという特徴をもつ人称概念を持ち、それが適用される、というのが「心」/「心」のある人間の根本的な特徴なのだと言える。我々は(「心」のある)人間を人間と認識してからその人に呼びかけるのではない。そうではなく、逆に、呼びかけることこそが、(「心」のある)人間を人間として認識することに他ならないのだ*5。だからこそ、その"言葉"の宣言は魂があることの宣言になるのであり、それはその"言葉"が「私」を生み出している、ということだ*6。

 このような「魂」が存在するとは、何よりもまず「(生きる)意志」が存在するということに他ならない。Jabberwockyでの「強い意志」の話はまさしくこれに対応している。皆守は己が破壊の役割を持つ人格でしかなく、その役割さえ果たせば死ぬのだと思い込んでいたわけだが、そこに「生きる意志」は存在しなかったと言える。明晰夢の認識/鍛錬は、羽咲を守るということを目的として「生きる意志」をもち、ムーア命題を宣言できるようになるための訓練に他ならない。余談だが、ウィトゲンシュタインも「意味盲」について語る節において、夢の比喩を用いている。

もしも意味が心に浮かぶことを夢になぞらえるなら、われわれは通常は夢をみることなしに語る。〈意味盲〉の人はいかなるときも夢を見る事なしに語る人であると言えよう。(232節)
ウィトゲンシュタイン『心理学の哲学』
夢を見ること、それがムーア命題の宣言であることはもはや言うまでもないだろう。そしてそれは「私=世界」を変化させるということでもある。例えば、屋上での卓司との戦いにおいて「私はナイフを持っているということを知っている」という命題は、一種のムーア命題だったのだ。故に、その宣言が出来なかった皆守は(一時的にとはいえ)死んでしまう=世界が終わってしまうのだ。

 この作品のテーマでもある「幸福に生きよ!」という命令文はこの「意志」の次元においてようやく関わってくる。それはまた、「意志」が出てこないルートにおいてはBAD END的な結末をむかえることになることからも分かるだろう。しかしそれは通常言われるような意味での「意志」ではない。

 この場合世界はそれ自身では善でも悪でもない。
(中略)
 善と悪は主体によってはじめて登場する。そして主体は世界には属さない、それは世界の限界である。
 表象の世界は善でも悪でもない、善悪があるのは意志する主体である、と(ショーペンハウエル風に)語ることが出来よう。
ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1916年8月2日
 世界は私の意志から独立である。
 人は自分の意志を働かすことはできないのに、他方この世界のあらゆる苦難をこうむらねばならない、と想定した場合、何が彼を幸福にするのだろうか。
 この世界の苦難を避けることができないというのに、そもそもいかにして人間は幸福であり得るのか。
 まさに認識に生きることによって。
 良心とは認識の生が保証する幸福のことである。
 認識の生とは、世界の苦難をものともせぬ幸福な生である。
 世界の楽しみを断念しうる生のみが、幸福である。
 この生にとっては、世界の楽しみはたかだか運命の恩寵にすぎない。
ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1916年8月13日
 世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。
 意志は世界に対する態度決定か。
ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1916年11月14日
 善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させるとき、変え得るのはただ世界の限界であり、言語によって表現され得るような事実ではない。
 つまり、この場合世界は全体として別の世界になるのでなければならない。世界はいわば全体として縮小もしくは増大せねばならない。
 幸福な人の世界は不幸な人の世界とは別の世界である。
通常「意志」という言葉が使われる際、それは世界の中の「事実」を変化させる一種の要因として捉えられている(現象としての意志)*7。しかし、上の引用(特に『論考』6.373)から明らかなように、ここで言われる「意志」とはそのようなものではない。ある種"運命"論的な世界観において考えられている「意志」とは徹底的に無力なものであり、消極的/受動的なものである*8。少なくともJabberwockyIIにおいては「意志」がこのように運命に対して無力なものとして捉えられていることは、屋上から落ちていく際の皆守の台詞からも分かるだろう。

自由落下……重力という運命により、俺たちは地面に吸い込まれる……。
空を飛ぶことが出来ない人間は、
空の上から地に落ちることしかできない。
でも、俺は認めない。
絶望なんてここには無い。
あるべきはすべき事だけ。
この瞬間にすべき事だけ、
今を生き。
そして明日を生きるためにすべき事だけ、
―『素晴らしき日々』皆守
そのように無力な「意志」はいかにして善悪/倫理の担い手となるのか。それは、この「意志」がいかにして世界を「認識」するのか、すなわち、いかにして私の生を受け止めるのか、ということによってである(cf.「世界と生とはひとつである」―『論考』5.621*9)。では、その「認識」とはどのようなものだろうか。

 まず、引用から明らかなように、世界内の事実による幸福や不幸といったものがここで考えられているのではない(その「楽しみ」は「運命の恩寵」にすぎない)。ここで問われているのは、まさしく「この世界の苦難を避けることができないというのに、そもそもいかにして人間は幸福でありうるか。」ということなのだ。それは『素晴らしき日々』という作品内において、執拗に悲惨な「事実」が描写されることが示している。そんな生を、それでも肯定するためには、あくまでも偶有的なものに留まる「事実」の総体としての世界ではなく、必然的なものとして(=「永遠の相の下に」)「対象」の総体として世界を見なければ/認識せねばならない。すなわち、「意志」は「対象」の総体として(=論理空間そのものとして)の世界の見方/生の受け止め方を実現する力だと言える*10。あるいは、『論考』6.43に則してこう言ってもよい。「意志」は認識によって私=世界の限界を超える力なのだ。世界の限界を超えることは、新たな「対象」を世界に取り込む=肯定するということであり、それは私=世界を変えることに他ならないのだ*11。このとき、世界の中の「事実」が何か変わったわけではない。あえて言うならば、「認識」が変化したのだ。そして、このような肯定のことをウィトゲンシュタインは「認識に生きること」と言っているのである。つまり、ウィトゲンシュタインにとって、認識とは(世界に対する)ある種の態度に他ならなかったのだ。例えば、皆守の世界には「生」は存在しなかった=皆守は世界を肯定的な態度で受け止めていられなかった。故に「意志」によって私=世界を拡張=変化させられなかった場合には死=世界の終わりがやってくることになる。

 そのように見られた世界に不可解なもの(『論考』の言葉で言えば「驚き」)などあるはずがない。「意志」によって私に唯一の必然的なものとして世界を見られたならば、あとはそれを「肯定」することにより、生を絶対的に肯定することが出来るのである(最後の「肯定」というステップについては次節で触れる)*12。ここに「幸福に生きよ!」という言葉/命令文のトートロジー性がある。それは仮言命法ではなく、定言命法だからこそ意味があるのだ。

そして……俺の世界が世界であり……それに外側なんてありはしない
(中略)
人生が不可解であると戸惑う必要はない
この世界も、この宇宙も、この空、この河、この道……そのすべての不可解さに戸惑う必要なんてない……
人が生きるという事は、それ自体をものみ込んでしまう広さだから……
―『素晴らしき日々』wonderful everyday 皆守


 そして、Jabberwockyにおける「意志」、wonderful everydayにおける「幸福に生きよ!」という命令文を通じて、終ノ空IIでは「(私の)魂」が前面に出てくることになる。まさしく「「世界は私の世界である」ということを通じて自我は哲学に入り込む」(―『論考』5.641)のである。

 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。
 世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する。そして私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握するのである。
 右の見解は、唯我論(引用注:=独我論)がどの程度真理であるか、ということを決定するための鍵を与える。
ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1915年5月23日
 ざっと大枠を振り返ってみたが、かなり後期、最晩年に近いウィトゲンシュタインの思想が取り入れられつつも(cf.「懐疑主義からの決別」byすかぢ)、それを足場にwonderful everydayや終ノ空IIでいったん示される着地点は前期の『草稿』『論考』から変わらない幸福観である、とは言えるだろう。そこでは、「意志」がある時は「現象としての意志」として使われ、またある時は「倫理の担い手としての意志」として使われていることによって、蝶番的役割を果たしている。

言葉と旋律

僕たちの頭はこの空よりも広い……
ほら、二つを並べてごらん……ぼくたちの頭は空をやすやすと容れてしまう……
そして……あなたまでもを……
ぼくたちの頭は海よりも深い……
ほら、二つの青と青を重ねてごらん……
ぼくたちの頭は海を吸い取ってしまう
スポンジが、バケツの水をすくうように……
ぼくたちの頭はちょうど神様と同じ重さ
ほら、二つを正確に測ってごらん……
ちがうとすれば、それは……
言葉と音のちがいほど……
 自分が成し遂げてみたい最高のことは、旋律の作曲だろうとしばしば思う。というか、旋律を作ろうとしても自分にはひとつたりとも浮かんでこないことが私には驚きなのだ。しかしそれに加えて私はこう言わなければならない、私に旋律が浮かぶなどというのは多分決して起こりえない、なぜなら、まさにそれにとって本質的な何かが、あるいは本質的なるものが私には欠けているのだから、と。旋律を生み出すことがかくも高い理想として私に浮かんでくるのは、そのとき自分の生をいわば要約できるだろうからであり、結晶化できるだろうからである。そしてたとえそれが小さなみすぼらしい結晶にすぎなかったとしても、それはやはり結晶なのである。
ウィトゲンシュタインウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』1930年4月28日
 この作品は「言葉と旋律」の物語だと言われている。その時言われている「旋律」とはなんだろうか。

 作中では、「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。」(―『論考』5.6)によって言葉と世界とをつなげ、更に「旋律」という言葉がディキンスンの詩と組み合わされることで、「言葉と旋律」が「世界と神」に重ねられていった。それでは、神とは何か。神は世界=生の意義である(『草稿』1916.6.11下記引用参照)。つまり、ここで『素晴らしき日々』という作品は、いわば生を肯定するための具体的な方法を「旋律」という形で示しているのである。それは『草稿』/『論考』のウィトゲンシュタインならば「芸術」や「宗教」であったものだろう*13。由岐の下記の台詞に出てくる「美しさ」とは芸術の問題に他ならず、「祈り」とは宗教の問題に他ならない。

言葉と美しさと祈り……
三つの力と共に……素晴らしい日々を手にした
人よ、幸福たれ!
幸福に溺れる事なく……この世界に絶望することなく……
ただ幸福に生きよ、みたいな
―『素晴らしき日々』水上由岐
 乱暴に言ってしまえば、「言葉と旋律」というのは「幸福な生」にいたるための方法を提示しているのだ。すなわち、「言葉」によって現実世界を自らの生として引き受け(cf.ムーア命題の宣言)その生が自分にとって唯一で必然的なものとして見られた後、その生を肯定する一つの手がかりとして「旋律」というものが提示されているのである。由岐の台詞に対応づけるならば、『素晴らしき日々』では、芸術=「美しさ」の具体的なものとして「旋律」が、宗教=「祈り」の具体的な行為として、その「旋律」を弾くことをが示されている、と言える。そのことは下記の引用からもわかるだろう。だからこそ、wonderful everydayの最後は皆守がピアノを弾くシーンで終わるのである。

鍵盤の音が俺の耳に響き……
そして他の誰かの耳に届く。
誰かが作った曲を俺が弾く。
そいつは俺に弾かれると思って作曲したわけじゃない。
でも俺はその曲を弾く。
だいたい好きな曲だから……
感動した曲だから……
その旋律は、誰かの耳に届く、
俺以外のの誰か、
皿を洗う羽咲に、
最近、玉のみならず、本当に竿まで取ろうとしているマスターに、
店に集まるオカマ野郎どもに……
音楽は響く。
店内に響く。
世界に響く。
世界の限界まで響く。
そこで誰かが聴いているだろうか?
聴いていないのだろうか?
それでも俺は……音楽を奏でる。
誰のためでもなく、
それを聴く、あなたのために……。
―『素晴らしき日々』wonderful everyday 皆守
そして、ここで示されている見方はおそらくすかぢが下記のtweetにおける考えを反映したものだろう*14。

SCA_DI
それらしい話は聞いてたのですが、実は途中で挫折してたと思ってました。東さんとボクだと感性にズレがあるので。独我論を徹底した実在論から他者との繋がりを模索するというのがボクの基本スタイルなんで。 RT @babi_03: おっ、あずまんさん、ケロQのゲームやってるのか!

2011-03-29 12:24:26 via ついっぷる/twipple

是非、この先を(つまり、『サクラノ詩』)をはやく見てみたい。

Down the Rabbit-Hole STORY:A

 このプロローグはすば日々という作品全体の総括、エピローグにもなっており、だからこその「無限回廊/無限に続く先」、というのが巧く描写されている。というより、この序章において、重要な主題は全て提示されており、終ノ空IIが終わった後にもう一度プレイすると、ここは各断章を大きく反復しているように感じられる。だからこその、エピローグ。

 例えば、7月∞日のC棟屋上における由岐とざくろの会話は明らかにムーアの「常識の擁護」「外界の証明」を意識した『確実性の問題』の話を検討していた(cf.Jabberwocky)。また、ざくろの「この空には言葉が溢れていません……この空には言葉が無い……」といった発言は、つまり"由岐"という存在が"言葉"によって定立されていない(=「私」が生み出されていない)、ということだろうし、だからこそ7月∞日に世界から人が消え、屋上で懐疑的議論がなされてしまうのだ、と言えるだろう。鏡/司ENDは、逆にある種の「確実な知識」(=鏡/司)を手に入れることができ、その宣言(=「魂」)によって生まれる「私」="由岐"が"由岐"として存在できたENDだと整理できる。

 この章での最後の由岐の台詞

 世界は器……
 器を満たすもの……それは
―『素晴らしき日々』Down the Rabbit-Hole STORY:A 水上由岐
この後にくる言葉はもちろん「(生きる)意志」だろう。つまり、ここで回答自体はほぼ出ているわけである。由岐も「私は私が得た真理を胸に……白い部屋から出る。」と独白しているように。例えば、『草稿』には次のようにある。

 神と生の目的とに関して私は何を知るか。
 私は知る、この世界があることを。
 私の眼が私の視野の中にあるように、私が世界の中にいることを。
 世界についての問題となるものを、我々が世界の意義と称することを。
 世界の意義は世界の中にはなく、世界の外にあることを。
 生が世界であることを。
 私の意志が世界にあまねく浸透していることを。
 私の意志が善か悪かであることを。
 従って善と悪は世界の意義と何らかの連関があることを。
 生の意義、即ち世界の意義を我々は神と称することができるのである。
ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1916年6月11日
 最後の「透明な白」の空間について。この「透明な白」の空間というのは、ここと終ノ空IIの冒頭に計二回出てきて、そこがつながっているのではないかと意識させる点で非常にうまい(つまり、最後、何時何処で由岐は眼を開いたのだろうか?)。あと、おそらく「透明な白」についてはウィトゲンシュタインの『色彩について』で透明な色や不透明な色の論理、ガラスの色・三次元の物質の色・光の色が問題になり、さらに何故"透明な白"や"灰色の光"が存在しないかが問題にされるあたりの文脈をふまえている気はした。

各断章雑感

 Down the Rabbit-Hole STORY:A以外の断章についてつらつら覚えている範囲で。

Down the Rabbit-Hole STORY:B

 鏡と司をもっとうまく使えたのではないかなー、という気はする。二人のノイズ感がもっとあればよかったと思う。

It's my own Invention

 希実香ENDでは、最後屋上から飛び降りたときに卓司と希実香は初めて抱きしめあうわけだけど、それは飛び降りによってようやく二人は救世主―信者という関係から男の子―女の子という関係になれた、ということで、個人的にはそのシーンが結構好きだったりする。この断章のTure ENDでは卓司と希実香はセックスしている一方で、この希実香ENDではセックスをしていない、というのがまさしく最後の「飛び降り」こそが関係性の移行を可能にしたという事実を強化してて大変良かった。そもそも希実香はこの作品においては明らかにサブキャラクターなのにも関わらず、この作品の中心的なテーマには触れている、という意味で特異なキャラクターで(ex.C棟屋上でのダンス・神と旋律・銀河鉄道のチケット…etc.)、そのノイズ感が僕は結構好きだった。

 あとは、科学哲学者イムレ・ラカトシュの「新奇な予言」という用語が割と自然な文脈で使われていた「新奇な予言」というのは、ラカトシュの提唱したリサーチプログラム説において、前進的プログラムと退行的プログラムを区別するために用いられるもので、普通に科学哲学の話になるのでやめよう
Looking-glass Insects


 アタマリバースENDでざくろは自殺をするわけだが、この作品のテーマである生を肯定するという観点から見たとき、もちろん自殺は生を否定するものとして、その対極に位置するものだと位置づけられる。Down the Rabbit-Hole STORY:Aにおいて、ざくろは自分のしたこと=自殺が罪だということ、そしてその贖罪をしようとしたことを由岐に告白しているけれど、それはまさしくこの認識があるからだ。

自殺が許される場合は、全てが許される。
何かが許されない場合には、自殺が許されない。
このことは倫理の本質に光を投じている。というのも、自殺は基本的な罪だからである。
ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1917年1月10日
ただ、ここで描かれるのは悲惨な「事実」に直面した結果としての自殺、というよりは意志/勇気をもてなかったが故に、「私=世界」を肯定する事=変えることが出来なかったが故の自殺が描かれている気がする。それによって素晴らしき日々ENDで描こうとする「生の肯定」の絶対性をより際だたせているのではないか。

 では一方のざくろHAPPY ENDはどうか。ここで描かれる「幸福」に関しては、一見したところでは、ある「事実」がたまたま成立したことによる「幸福」のように思える。そういう意味では、生を絶対的に肯定することが出来ているわけではない(それは一方の自殺ENDがあることからも明らかである)。だから、ここで描かれているのはある種のご都合主義END、世俗的幸福観に過ぎない。しかし、ざくろの世界は確かに変化していると言えるのではないか。ざくろは自らの認識を変え、「私=世界」を限界を拡張させたのではないだろうか。ではこの断章で描かれている「意志」は「現象としての意志」に過ぎないのか、それとも「倫理の担い手としての意志」なのか…。やはりこの断章が様々な意味で「蝶番」な気がしてならない。そのうち再読した


 そしてもちろん、『素晴らしき日々』という梯子は、登り切った後には投げ捨てられなければならない。

 しかし、本当にそんなことは可能だろうか?*15

 生の問題の解決を人が認めるのは、この問題が消え去ることによってである。
 しかし、生が問題的であるのをやめるような具合に、即ち時間の中にではなく永遠の中に生きる、という具合に、人が生きることは可能であろうか。
ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1916年7月6日
―――――いつか、辿りつけるのだろうか?
ー『素晴らしき日々』OPムービー
*1:G.E.ムーアは論文「常識の擁護」「外界の証明」において「自分が確実に知っているいくつかの命題が存在する」と主張した。その際に挙げられた命題をムーア命題と言ぶことにする。

*2:『確実性の問題』は「ここに一つの手があるということを君が知っているのであれば、それ以外のことについてはすべて君の主張を認めよう(1節)」という書き出しで始まっている。

*3:この見解は『論考』において既にみられる。『素晴らしき日々』における『論考』読解はこの部分に注意し、「懐疑主義からの決別」をはかったものだと言ってもいい。「問われえないものを疑おうとする以上、懐疑論は論駁不可能なのではなく、あからさまにナンセンスなのである。すなわち、問いが成り立つところでのみ、疑いも成り立つのであり、答えが成り立つところでのみ、問いが成り立つ。そして答えが成り立つのは、ただ、何ごとかが語られうるところでしかない。」(―『論考』6.51)

*4:これがたとえば「鉛筆」だったら使われ方は異ならないだろう。「私の鉛筆」と「あなたの鉛筆」といった時には、互いに同じようにそれをみているだろうから。

*5:「私の彼に対する態度は心に対する態度である。だが、彼が心を持つという考えではない。」(―ウィトゲンシュタイン哲学探究』)も参照。ここで述べられているように、この認識が「態度」であるということは重要である。

*6:ウィトゲンシュタインではないが、ローティの次のような言葉を思い出してもいいだろう。「人間は誰しも、自らの行為、信念、生活を正当化するために使用する一連の言葉をたずさえている。(中略)こうした言葉を用いて、時に先を見越しつつ、時に振り返りつつ、人生の物語を語る。このような言葉を、その人の「最終的な語彙(final vocabulary)」と呼んでおくことにしよう。それが「最終的」であるのは、こうした言葉の価値が疑われたときに、この言葉を使う者は、循環論法に陥らざるをえない、という意味においてである。この言葉は、私たちが言語を手放さないかぎり、どこまでもついてくる。」(―R.ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』)

*7:実際、すば日々においてもそのような意味で「意志」が使われていることが多い

*8:それはまた、『草稿』『論考』において最終的に、主体が世界の中にも外にも存在せず、私=世界/世界の限界となっているためである。この"私"は世界を見ることしかできない。

*9:「現実世界が自分の生である」ということは「懐疑主義からの決別」によって示されていると言ってよい。「意志」が問題となるのはその次のステップである。

*10:だからこそ、倫理が意志の世界への態度決定だと考えるならば、「倫理は超越論的である。」(―『論考』6.421)と言われるのだろうが、ここでは深入りしない。

*11:ここでいう「対象」は(客観的に)定まるものではない、というのが重要である。

*12:逆にこれを否定することが自殺である。wonderful everydayにおいては、琴美が出てくるところで自殺と意志の話がなされている。

*13:「倫理学と美学は一つである。」(―『論考』6.421)や「芸術作品は永遠の相の下に見られた対象である。そして善い生とは永遠の相の下に見られた世界である。………永遠の相で見られるものは、全論理空間と共に見られたものである(こんな思想がしきりと浮かんでくる)」(―『草稿』1916年10月7日)といった章句を参照。

*14:そしておそらく、これは永井均が論文「他者」等で述べている捉え方に近い(実在論はともかくとして)。先に引用した『草稿』における「世界霊魂」についての記述も同論文を参照。

*15:いわば、無時間性の中に人間が生きる、とは天使になる、と言ってもよい。それは例えばefで示された幸福観とはまた異なったものだろう、という幸福云々という話はまた機会があったら。


キャッチャー・イン・ザ・ライ 雑考2

ナイン・ストーリーズ』の中の「エズミに捧ぐ」を一読しよう

それはともかく、というかそれと関連して、というか、この小説の隠されたプロットの一つは「子殺し」即ち死への誘惑だろう。サリンジャーは、主人公のホールデンが「パパに殺される!」とフィービーに何度も言わせている。ホールデン自身同部屋のストラドレーターに殴られて血まみれの姿で寮を脱け出すのだが、その寮はストラドレーターに「ここはまるで死体置場みたいじゃないか」と言われる場所である。葬儀屋をしている卒業生が多額の寄付をして建設され、その名がついた棟なのだ。そしてストラドレーターの吹く口笛は『十番街の虐殺』である。小説の最後の部分、精神に異常をきたし始めたホールデンが行きずりの子どもを案内していった先が博物館のミイラのある場所だった。「そこはなにしろ落ちついて静かで、気持ちがよかった」のだ。

 雪が降って、白一色の「死体置場」から、血まみれの主人公は赤いハンチングをかぶって脱出する。隣の部屋のアクリーに「おれの郷里のほうじゃな、そんな帽子は鹿射ちにかぶるんだぜ」といわれて「こいつは人間射ちの帽子さ」と答えた赤いハンチングは何の象徴だろうか。いったんはフィービーに渡したその赤いハンチングをかぶって、降りだした雨にずぶ濡れになりながら、「僕」はフィービーが回転木馬に乗ってぐるぐる回りつづけるのを見て、「大声で叫びたいくらい」幸福な気持ちになる。「ブルーのオーバーやなんかを着て、ぐるぐる、ぐるぐる、まわり続けてる姿が、無性にきれいに見えた」はたして死は克服できたのだろうか。  

最後に、これは「誰に向けて語られたのか」という問題を提起したい。小説の最後の部分で「大勢の人に話したのを、後悔してるんだ」とある。「大勢の人」とは誰なのか。何のために「大勢の人」に話したのか。「誰にもなんにも話さないほうがいいぜ。話せば、話に出てきた連中が現に身辺にいないのが、物足りなくなって来るんだから。」というラストの言葉は、なんかなあ とは思う