脱構築批評について

「対立する概念・二項対立を転覆させることで新たな意味を獲得していくこと」
がその本質となる

これが物語の批評に意味を持つのか?
つまり
表/裏,光/闇,男/女といった対立を転覆させたところでその物語が「何であるか?」というものに答えてくれないと思うし、これで新たな意味が見い出せるのか?

『批評理論入門』(著・廣野 由美子)によると、脱構築批評とはテクストが互いに矛盾した読み方を許すものだと説明している

「テクストは首尾一貫した論理的な統一体」であるという考え方を構造主義・形式主義は取る。テクストを構成している様々な要素には、全ての意味や形を理解するための絶対的な鍵が存在するというものである。

しかし脱構築批評はこれに異を唱え、テクストが矛盾した解釈を両立させていることを明らかにするのが目的である。

言い換えればテクストの構造を分解することではなく、テクストがすでに自らを分解していることを証明することということだ

デリダは、西洋文化においては二項対立的な思考パターンが支配的であることに着目した。たとえば、白/黒、男/女、原因/結果、はじめ/終わり、明/暗、意識/無意識など、対をなす対立概念の例は無数にある。
デリダはさらに、それらがたんに対立しているだけではなく、一方が優れていて他方が劣っているとされたり、一方が肯定的に他方が否定的に取られたりする傾向があり、そこに階層が含まれていることを指摘した。
デリダはこの「二項対立」の境界を消滅させることを目指し、対立に含まれている階層に疑問を突きつけることによって、西洋的論理を批判しようとしたのである。
したがって脱構築批評では、テクストの二項対立的要素に着目し、その階層の転覆や解体を試みる方法がしばしばとられる。

つまり、脱構築批評とは「絶対的な答え」という概念を解体するものだと言える

脱構築批評の主眼は、作品には中心的な意味がないということを証明することにある。そのため、テクストをめぐる異なった解釈が互いに矛盾し合い、どちらが正しいか決定不可能であることを示すという方法がとられる。
批評理論をざっと見渡しただけでも、解釈が衝突する例は、数多く挙げることができるだろう。
フェミニズム批評では、女性の表象としての怪物が家父長制を破壊し、マルクス主義批評では労働者階級の表象としての怪物が資本主義を、ポストコロニアル批評では植民地の表象としての怪物が帝国主義を、それぞれ転覆させようとする話として読まれる。
これらの解釈は、それぞれ『フランケンシュタイン』というテクストから引き出された「意味」であるが、互いに脱構築し合って中心的位置を占めることはない。

「物語の答えは作者が持っている」とし、作者が唯一不変の絶対的に正しい答えを物語に込めているという考え方をする人がいる
そして実際に作者が物語の解説をし「あの物語は☓☓という意味」と語ることさえある。

しかし脱構築批評によれば、作者が示した答えに対立する解釈を物語から見い出し、更にはここからこの二項対立どちらが解釈として優れているか劣っているかという階層を消滅させる
すなわち「物語には様々な解釈を許す」ことを示し、かつ脱構築する結果として対立する片方の意味を見出す為、「物語の新たな意味を獲得」していることになるのではないか

つまり
「作者」は言語や絵を用いて、言語や絵の先にある、既成の何かでは表現できないものを物語として生み出している。
既成の枠組みを超えたそれらは「テクスト」と呼ぶべきもので、あるいは「イデア」と呼ばれるものであり、これをひとたび「解説」や「批評」という言語を用いてその物語が何なのかと説明した時点で、既成の何かでは表せないものを物語に転換したのに言語を用いて語ってしまえば既成の枠組みに戻ってしまう、それは私達と同じ"この物語は何だ?"と考え説明する読者群と変わらないのである。
つまり「作者」がいくら自前の作品を解説しようともそれは一つの読み方、一つの解釈の提示でしかない。言語にてその物語=テクスト、の絶対的な答えを取り出すことは不可能ならばそもそもそんなものは存在しない