素晴らしき日々 とウィトゲンシュタイン

 『素晴らしき日々』の雑感


 "Tell them I've had a wonderful life."
―Ludwig Josef Johann Wittgenstein
 『素晴らしき日々』という題名の元ネタはおそらくウィトゲンシュタインが死ぬ間際に言ったとされるこの言葉だろう。
この作品はある一つの肉体をめぐり、複数の意識が水平的に並列し、やがて収斂した意識が存在の深層とも言うべきアラヤ識へとトートロジー的に垂直方向へ沈んでいくことで初めて成し得る物語である。肉体は本来、本作の真の主人公である間宮皆守に帰属していた。だが、仇敵である弟の間宮卓司と年上の幼なじみである水上由岐を不慮の事故で失い、その精神的打撃が現代医学で言う多重人格障害という形態で皆守に表出した。多重人格障害は近年、特にアニメやゲームにおいて主題に挙げられることが多い。プレモダン期に世界を保証していた神を失い、自己言及により独我論的に自我を自己決定していく論理も効能を失い、ポストモダンにおいて無意識に内在していた文化の構造が我々を規定していたことが露呈した現代において、若者は終わりなき日常の中で生臭いペシミズムを発酵させ続けている。彼らの実存の処方箋としてポストモダン社会に提出された理論もまた救済には至っていない。
たとえばデリダ脱構築のように自己をその文化の構造からズレた座標軸に定位させるか、ドゥルーズ=ガタリのようにスキゾ的に無根拠かつ軽やかな生を飛び回ることは、その原理において不可能なのだ。なぜならそれらが理論的に証明された時点で逆説的に文化の構造が若者を相対性において照射し、因果に内在する論理のクビキに縛られ続けるからである。ここにおいて多重人格障害は、実存の危機に対する一種のスケープゴートとして「ここにない自分」や「自我からの脱出」というテーゼへの憧憬と相成り、若者の最早実存と呼ぶにはあまりに頼りない存在者としての存在を反映する鏡として熱狂的に支持されているのではないかと思われる。『素晴らしき日々』の皆守の多重人格障害において、その内的要因は皆守が彼らの意識を無意識的に取り込むことで死を無化し、自らの肉体を死者の魂に喜捨するという共有共存という形を取った砂上の楼閣の如き脆弱な贖罪を表徴している。これにより皆守の魂は強大な実存的質量を備えた卓司の魂によりマヤ識にまで沈殿させられてしまい、意識の、そして「意志」のアイデンティティをめぐる形而上の闘争が展開される、というあらすじである。ここで、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』や、エミリ・ディキンスンの『脳は空より広いか』の一節が本作の通奏低音である「世界の限界に関する議論」として度々登場し、象徴的なモチーフとなる。
「論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある」
「私(あるいはこれを読むあなた)は世界に属さない」 
「世界の意義は世界の外に出なければならない。世界のすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。 世界の中には価値か存在しない」
「世界は私の意志から独立である」 
「仮に我々の望む全ての事か生起したとしても、そのことはやはり、いわは運命の恩恵にすきないのであろう。 何故ならは意思と世界との間にはその事を保証するような論理的な連関は存在しないからである」


僕たちの頭はこの空よりも広い……
ほら、二つを並べてごらん……ぼくたちの頭は空をやすやすと容れてしまう……
そして……あなたまでをも……
ぼくたちの頭は海よりも深い……
ほら、二つの青と青を重ねてごらん…
ぼくたちの頭は海を吸い取ってしまう
スポンジが、バケツの水をすくうように……
ぼくたちの頭はちょうど神様と同じ重さ
ほら、二つを正確に測ってごらん……
ちがうとすれば、それは……
言葉と音のちがいほど……
——エミリ・ディキンスン『脳は空より広いか』
「世界」は、すなわち「この今の私の限界」であり、私は「私」以外の何ものの世界を往来することも出来ない。それは本質的に人間が認識論的文脈において孤独であり、誰かと繋がることは永久に出来ないという諦観と絶望が『素晴らしき日々』における「語り得ないもの」として一貫している。しかし存在論的次元において、「あなた」という呼びかけそのものが、私の世界内という制限において逆説的に私の存在を保証しているということに皆守は気付き、そこに一縷の希望を見出して物語は終わる。すなわち、コミュニケ―ションが「この私はあなたが私の世界内において存在していることを知っている」という懐疑に満ち満ちた存在論的定冠詞の前提を抜きにして、「あなたはここにいる」と発語し、またそれを認識出来るということは、人間を人間として認識したから呼びかけという因果関係に沿ったのではなく、「呼びかけた」、その事実そのものが人間を人間として無前提、無条件に了解しているということであり、ここに魂の実在性を皆守は認めるのである。
まさしくそれは『ヨハネによる福音書』の「太初にロゴスありき」が表徴する実在性であり、私という世界は私の言葉の響きにその臨界を措定する。実存が本質に先立ち、言葉は世界に先立つ。世界が「光あれ」の発語で自己展開したならば、世界よりも先に言葉があったはずである。いわばそれは世界のア・プリオリな経験であり、無意識の実相である。「あなた」と呼びかけた人称概念、その言葉こそによって「私」がまた私の世界内において生まれ落ち、どこまでも存在を分節していくこととなったのである。

では「光」の表徴とは何か。暗澹たる無規定、無秩序のコトバによる存在者の可能性のみが存在するアラヤ識の宇宙に、「C’est mon panache!」という言葉が存在を貫通し、世界に本来性を設置せしめ渾沌の極北を照らし上げる。「光」とは「旋律」である。コトバは「意志」により旋律となる。皆守の肉体に内在する幼なじみ、水上由岐の高らかな宣言により、皆守自身、もとい彼に内在しているかもしれない私たち自身は懐疑を乗り越えて存在に魂を認め、「語り得ない」超越性へ「祈る」という行為を続行していく、その営為そのものに意味を認め、存在者は現存在へとアップデートされるのである。その命題、魂が発するミームとも言うべき唯一の「意志」、それが「幸福に生きよ!」というヴィトゲンシュタインの絶唱へと接続されるのである。
そしてそれを十全した神経質の人間嫌いであり、超越性という世界外存在とも喩えられるべき「語り得ないもの」としての倫理に頭突きをし続けたこの男は、最後にこう呟くのだ。

“Tell them I’ve had a wonderful life.”

素晴らしき日々」は常に私とあなたと共に在る。たとえ私とあなたが世界を共有することに能わず、不連続な存在だとしても。彼はそう祈って、静かに眠りに着いたのである。

では、内容について


まず、Down the Rabbit-Hole STORY:BやIt's my own Inventionにおける主題は「懐疑」とまとめられる。It's my own Inventionは外界への懐疑とそれによって逆説的に強化される「卓司」の確実性といった二面性はあるものの、その破滅的結末を考えると、その懐疑的側面(のマイナス面)が中心になっているとは言えるだろう。Looking-glass Insectsでは、冒頭のざくろと卓司(人格的には皆守)の会話に象徴的なように、「意志/勇気」という主題が導入されはじめる。すなわち、その冒頭で示されているのは、意志で自らを変化させることができない=己の確実性に至れない「皆守」の"鏡"としての「ざくろ」ということだが、この断章における分岐が結局のところざくろの「意志/勇気」の向かう方向性に依っていることからもこのことはわかる。つまり、それが現実の懐疑に向かえばアタマリバースENDになるし、希実香との共闘に向かえばざくろHAPPY ENDとなる。この章におけるそれぞれのENDは明確にこの作品の持つ二項対立―懐疑と肯定、不変と変化、終わりとその乗り越え…etc.―を示していると言える。だからこそ、この断章が全六章のうちの第三章―折り返し地点/分岐点―なのだろう。Jabberwockyでは、皆守は夢の中で由岐と精神鍛錬をするわけだが、この話は完全にウィトゲンシュタインの『確実性の問題』におけるムーア命題*1(ex.「私はここに手がひとつあることを知っている」等*2)の扱いと同じである。ムーア命題の奇妙な点の一つは、マルカムが『ムーアと日常言語』で主張したのとは全く反対に、日常このような命題を述べて知の主張をすることはない、ということである。ウィトゲンシュタインは、ムーアも懐疑論者も外界の存在証明はムーア命題に収斂すると考えているが、そこに両者の錯覚が存在すると考え、以下のように述べている。

 私はこう言いたい。ムーアは、彼が知っていると主張することを、実は知っているのではない。ただそれはムーアにとって、私にとってと同様、ゆるがぬ真理なのである。それを不動の真理とみなすことが、われわれの疑問と探求の方法を定めているのである。(151節)
 (これらの)命題は、われわれが営む言語ゲームの体系全体の基礎にあたるものである。この想定は行動の基盤であり、したがって当然思考の基盤でもある、と言える。(411節)
 言語ゲームの根底になっているのは或る種の視覚ではなく、われわれの営む行為こそそれなのである。(204節)
ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』
ムーア命題で述べられているような「確実な」知は、われわれが/私がそれを"生きる"知なのである。いわゆる懐疑論が不可避な理由は、知識や真理は根拠や正当化をもつ限りにおいて知識や真理である、という考えに由来すると言えるだろう*3。しかし、それはウィトゲンシュタインの用いる区別でいうならば、「原因」を問う場面において「理由」を問うているような、カテゴリーミステイクによって生じているのだ。我々は「何故手があると知っているのか」という問いに対して、その「原因」(本能、習慣付け…etc.)を答えることはできても「理由」を答える事は出来ない。

「いかにして私は規則に従うことが出来るのか」もしこれが因果関係に関する問いでないなら、それは私が現にこのように規則に従っていることを正当とする根拠の問いである。正当化の根拠を尽くした時、私は固い岩盤に突き当たってしまい、私の鋤は跳ね返される。そのとき私はこう言いたくなる。「ただ私はこのようにやっているだけなのだ。」(217節)
我々が普段生きているとき、そのような自明なことはわざわざ口に出して言う必要は通常ない。だからこそムーア命題が奇妙な命題に思える。普通だったら「私はここに手がひとつあることを知っている」などと言わずに、「手がある」とだけ言うだろう。逆に言えば、ムーア命題を宣言することに何かしらの意味があるとすれば、その役割は世界内の対象についての事実の伝達ではないということだ。では、ムーア命題の宣言が問題になるような場面とはいったいどのような場面なのか。それは、「手がある」ことが、あたかもあひる-うさぎの反転図形のように捉えられるような場面である。あひる-うさぎの反転図形について、それが反転の可能性があることを踏まえた上で言及されるとき、「(私には)あひるにみえる」「(私には)うさぎにみえる」と言われ、決して「あひるが見える」「うさぎが見える」という風には言われない。このような言明で行われているのは、「私は(この図形を)あひる/うさぎとして取り扱う」というある種の態度の宣言なのだ。同様に「私はここに手がひとつあることを知っている」と言うことは、「世界の中に手が存在する」という事実を伝えるものではなく、言うなれば、「私の世界」を伝えるものなのだ。この無根拠で最大限確実な命題を「私」の名において引き受ける、ということ。ここにおいて、はじめて「心」あるいは「魂」が現れる。
「心」が現れるとはいったいどういうことなのか。それは、まず第一には「心」に関する概念を持っているということになる。「心」に関する概念とは、たとえば「痛い」だとか「考える」だとか「思う」だとかいった概念だ。こういった「心」に関する言葉は、必ず「私」という一人称だけではなく、二人称・三人称でも使われるが、その使い方は明らかに違う*4。端的に、あなたの痛みを私は感じられない。それは人称概念は非対称的だと理解することである。しかし、それだけではない。あなたの痛みを感じられないからといって、「あなたの痛み」という言葉が全く使えないかといえばそんなことは全然ない。むしろ、日常生活では全く問題なく使われている。それはすなわち、自分は「私」ではあるが、そこにいる「あなた」というのも「あなた」からみれば「私」なのだと理解することである。そのように非対称的ではあるが、それが結びついているという特徴をもつ人称概念を持ち、それが適用される、というのが「心」/「心」のある人間の根本的な特徴なのだと言える。我々は(「心」のある)人間を人間と認識してからその人に呼びかけるのではない。そうではなく、逆に、呼びかけることこそが、(「心」のある)人間を人間として認識することに他ならないのだ*5。だからこそ、その"言葉"の宣言は魂があることの宣言になるのであり、それはその"言葉"が「私」を生み出している、ということだ*6。

 このような「魂」が存在するとは、何よりもまず「(生きる)意志」が存在するということに他ならない。Jabberwockyでの「強い意志」の話はまさしくこれに対応している。皆守は己が破壊の役割を持つ人格でしかなく、その役割さえ果たせば死ぬのだと思い込んでいたわけだが、そこに「生きる意志」は存在しなかったと言える。明晰夢の認識/鍛錬は、羽咲を守るということを目的として「生きる意志」をもち、ムーア命題を宣言できるようになるための訓練に他ならない。余談だが、ウィトゲンシュタインも「意味盲」について語る節において、夢の比喩を用いている。

もしも意味が心に浮かぶことを夢になぞらえるなら、われわれは通常は夢をみることなしに語る。〈意味盲〉の人はいかなるときも夢を見る事なしに語る人であると言えよう。(232節)
ウィトゲンシュタイン『心理学の哲学』
夢を見ること、それがムーア命題の宣言であることはもはや言うまでもないだろう。そしてそれは「私=世界」を変化させるということでもある。例えば、屋上での卓司との戦いにおいて「私はナイフを持っているということを知っている」という命題は、一種のムーア命題だったのだ。故に、その宣言が出来なかった皆守は(一時的にとはいえ)死んでしまう=世界が終わってしまうのだ。

 この作品のテーマでもある「幸福に生きよ!」という命令文はこの「意志」の次元においてようやく関わってくる。それはまた、「意志」が出てこないルートにおいてはBAD END的な結末をむかえることになることからも分かるだろう。しかしそれは通常言われるような意味での「意志」ではない。

 この場合世界はそれ自身では善でも悪でもない。
(中略)
 善と悪は主体によってはじめて登場する。そして主体は世界には属さない、それは世界の限界である。
 表象の世界は善でも悪でもない、善悪があるのは意志する主体である、と(ショーペンハウエル風に)語ることが出来よう。
ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1916年8月2日
 世界は私の意志から独立である。
 人は自分の意志を働かすことはできないのに、他方この世界のあらゆる苦難をこうむらねばならない、と想定した場合、何が彼を幸福にするのだろうか。
 この世界の苦難を避けることができないというのに、そもそもいかにして人間は幸福であり得るのか。
 まさに認識に生きることによって。
 良心とは認識の生が保証する幸福のことである。
 認識の生とは、世界の苦難をものともせぬ幸福な生である。
 世界の楽しみを断念しうる生のみが、幸福である。
 この生にとっては、世界の楽しみはたかだか運命の恩寵にすぎない。
ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1916年8月13日
 世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。
 意志は世界に対する態度決定か。
ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1916年11月14日
 善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させるとき、変え得るのはただ世界の限界であり、言語によって表現され得るような事実ではない。
 つまり、この場合世界は全体として別の世界になるのでなければならない。世界はいわば全体として縮小もしくは増大せねばならない。
 幸福な人の世界は不幸な人の世界とは別の世界である。
通常「意志」という言葉が使われる際、それは世界の中の「事実」を変化させる一種の要因として捉えられている(現象としての意志)*7。しかし、上の引用(特に『論考』6.373)から明らかなように、ここで言われる「意志」とはそのようなものではない。ある種"運命"論的な世界観において考えられている「意志」とは徹底的に無力なものであり、消極的/受動的なものである*8。少なくともJabberwockyIIにおいては「意志」がこのように運命に対して無力なものとして捉えられていることは、屋上から落ちていく際の皆守の台詞からも分かるだろう。

自由落下……重力という運命により、俺たちは地面に吸い込まれる……。
空を飛ぶことが出来ない人間は、
空の上から地に落ちることしかできない。
でも、俺は認めない。
絶望なんてここには無い。
あるべきはすべき事だけ。
この瞬間にすべき事だけ、
今を生き。
そして明日を生きるためにすべき事だけ、
―『素晴らしき日々』皆守
そのように無力な「意志」はいかにして善悪/倫理の担い手となるのか。それは、この「意志」がいかにして世界を「認識」するのか、すなわち、いかにして私の生を受け止めるのか、ということによってである(cf.「世界と生とはひとつである」―『論考』5.621*9)。では、その「認識」とはどのようなものだろうか。

 まず、引用から明らかなように、世界内の事実による幸福や不幸といったものがここで考えられているのではない(その「楽しみ」は「運命の恩寵」にすぎない)。ここで問われているのは、まさしく「この世界の苦難を避けることができないというのに、そもそもいかにして人間は幸福でありうるか。」ということなのだ。それは『素晴らしき日々』という作品内において、執拗に悲惨な「事実」が描写されることが示している。そんな生を、それでも肯定するためには、あくまでも偶有的なものに留まる「事実」の総体としての世界ではなく、必然的なものとして(=「永遠の相の下に」)「対象」の総体として世界を見なければ/認識せねばならない。すなわち、「意志」は「対象」の総体として(=論理空間そのものとして)の世界の見方/生の受け止め方を実現する力だと言える*10。あるいは、『論考』6.43に則してこう言ってもよい。「意志」は認識によって私=世界の限界を超える力なのだ。世界の限界を超えることは、新たな「対象」を世界に取り込む=肯定するということであり、それは私=世界を変えることに他ならないのだ*11。このとき、世界の中の「事実」が何か変わったわけではない。あえて言うならば、「認識」が変化したのだ。そして、このような肯定のことをウィトゲンシュタインは「認識に生きること」と言っているのである。つまり、ウィトゲンシュタインにとって、認識とは(世界に対する)ある種の態度に他ならなかったのだ。例えば、皆守の世界には「生」は存在しなかった=皆守は世界を肯定的な態度で受け止めていられなかった。故に「意志」によって私=世界を拡張=変化させられなかった場合には死=世界の終わりがやってくることになる。

 そのように見られた世界に不可解なもの(『論考』の言葉で言えば「驚き」)などあるはずがない。「意志」によって私に唯一の必然的なものとして世界を見られたならば、あとはそれを「肯定」することにより、生を絶対的に肯定することが出来るのである(最後の「肯定」というステップについては次節で触れる)*12。ここに「幸福に生きよ!」という言葉/命令文のトートロジー性がある。それは仮言命法ではなく、定言命法だからこそ意味があるのだ。

そして……俺の世界が世界であり……それに外側なんてありはしない
(中略)
人生が不可解であると戸惑う必要はない
この世界も、この宇宙も、この空、この河、この道……そのすべての不可解さに戸惑う必要なんてない……
人が生きるという事は、それ自体をものみ込んでしまう広さだから……
―『素晴らしき日々』wonderful everyday 皆守


 そして、Jabberwockyにおける「意志」、wonderful everydayにおける「幸福に生きよ!」という命令文を通じて、終ノ空IIでは「(私の)魂」が前面に出てくることになる。まさしく「「世界は私の世界である」ということを通じて自我は哲学に入り込む」(―『論考』5.641)のである。

 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。
 世界霊魂がただ一つ現実に存在する。これを私はとりわけ私の魂と称する。そして私が他人の魂と称するものも専らこの世界霊魂として把握するのである。
 右の見解は、唯我論(引用注:=独我論)がどの程度真理であるか、ということを決定するための鍵を与える。
ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1915年5月23日
 ざっと大枠を振り返ってみたが、かなり後期、最晩年に近いウィトゲンシュタインの思想が取り入れられつつも(cf.「懐疑主義からの決別」byすかぢ)、それを足場にwonderful everydayや終ノ空IIでいったん示される着地点は前期の『草稿』『論考』から変わらない幸福観である、とは言えるだろう。そこでは、「意志」がある時は「現象としての意志」として使われ、またある時は「倫理の担い手としての意志」として使われていることによって、蝶番的役割を果たしている。

言葉と旋律

僕たちの頭はこの空よりも広い……
ほら、二つを並べてごらん……ぼくたちの頭は空をやすやすと容れてしまう……
そして……あなたまでもを……
ぼくたちの頭は海よりも深い……
ほら、二つの青と青を重ねてごらん……
ぼくたちの頭は海を吸い取ってしまう
スポンジが、バケツの水をすくうように……
ぼくたちの頭はちょうど神様と同じ重さ
ほら、二つを正確に測ってごらん……
ちがうとすれば、それは……
言葉と音のちがいほど……
 自分が成し遂げてみたい最高のことは、旋律の作曲だろうとしばしば思う。というか、旋律を作ろうとしても自分にはひとつたりとも浮かんでこないことが私には驚きなのだ。しかしそれに加えて私はこう言わなければならない、私に旋律が浮かぶなどというのは多分決して起こりえない、なぜなら、まさにそれにとって本質的な何かが、あるいは本質的なるものが私には欠けているのだから、と。旋律を生み出すことがかくも高い理想として私に浮かんでくるのは、そのとき自分の生をいわば要約できるだろうからであり、結晶化できるだろうからである。そしてたとえそれが小さなみすぼらしい結晶にすぎなかったとしても、それはやはり結晶なのである。
ウィトゲンシュタインウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』1930年4月28日
 この作品は「言葉と旋律」の物語だと言われている。その時言われている「旋律」とはなんだろうか。

 作中では、「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。」(―『論考』5.6)によって言葉と世界とをつなげ、更に「旋律」という言葉がディキンスンの詩と組み合わされることで、「言葉と旋律」が「世界と神」に重ねられていった。それでは、神とは何か。神は世界=生の意義である(『草稿』1916.6.11下記引用参照)。つまり、ここで『素晴らしき日々』という作品は、いわば生を肯定するための具体的な方法を「旋律」という形で示しているのである。それは『草稿』/『論考』のウィトゲンシュタインならば「芸術」や「宗教」であったものだろう*13。由岐の下記の台詞に出てくる「美しさ」とは芸術の問題に他ならず、「祈り」とは宗教の問題に他ならない。

言葉と美しさと祈り……
三つの力と共に……素晴らしい日々を手にした
人よ、幸福たれ!
幸福に溺れる事なく……この世界に絶望することなく……
ただ幸福に生きよ、みたいな
―『素晴らしき日々』水上由岐
 乱暴に言ってしまえば、「言葉と旋律」というのは「幸福な生」にいたるための方法を提示しているのだ。すなわち、「言葉」によって現実世界を自らの生として引き受け(cf.ムーア命題の宣言)その生が自分にとって唯一で必然的なものとして見られた後、その生を肯定する一つの手がかりとして「旋律」というものが提示されているのである。由岐の台詞に対応づけるならば、『素晴らしき日々』では、芸術=「美しさ」の具体的なものとして「旋律」が、宗教=「祈り」の具体的な行為として、その「旋律」を弾くことをが示されている、と言える。そのことは下記の引用からもわかるだろう。だからこそ、wonderful everydayの最後は皆守がピアノを弾くシーンで終わるのである。

鍵盤の音が俺の耳に響き……
そして他の誰かの耳に届く。
誰かが作った曲を俺が弾く。
そいつは俺に弾かれると思って作曲したわけじゃない。
でも俺はその曲を弾く。
だいたい好きな曲だから……
感動した曲だから……
その旋律は、誰かの耳に届く、
俺以外のの誰か、
皿を洗う羽咲に、
最近、玉のみならず、本当に竿まで取ろうとしているマスターに、
店に集まるオカマ野郎どもに……
音楽は響く。
店内に響く。
世界に響く。
世界の限界まで響く。
そこで誰かが聴いているだろうか?
聴いていないのだろうか?
それでも俺は……音楽を奏でる。
誰のためでもなく、
それを聴く、あなたのために……。
―『素晴らしき日々』wonderful everyday 皆守
そして、ここで示されている見方はおそらくすかぢが下記のtweetにおける考えを反映したものだろう*14。

SCA_DI
それらしい話は聞いてたのですが、実は途中で挫折してたと思ってました。東さんとボクだと感性にズレがあるので。独我論を徹底した実在論から他者との繋がりを模索するというのがボクの基本スタイルなんで。 RT @babi_03: おっ、あずまんさん、ケロQのゲームやってるのか!

2011-03-29 12:24:26 via ついっぷる/twipple

是非、この先を(つまり、『サクラノ詩』)をはやく見てみたい。

Down the Rabbit-Hole STORY:A

 このプロローグはすば日々という作品全体の総括、エピローグにもなっており、だからこその「無限回廊/無限に続く先」、というのが巧く描写されている。というより、この序章において、重要な主題は全て提示されており、終ノ空IIが終わった後にもう一度プレイすると、ここは各断章を大きく反復しているように感じられる。だからこその、エピローグ。

 例えば、7月∞日のC棟屋上における由岐とざくろの会話は明らかにムーアの「常識の擁護」「外界の証明」を意識した『確実性の問題』の話を検討していた(cf.Jabberwocky)。また、ざくろの「この空には言葉が溢れていません……この空には言葉が無い……」といった発言は、つまり"由岐"という存在が"言葉"によって定立されていない(=「私」が生み出されていない)、ということだろうし、だからこそ7月∞日に世界から人が消え、屋上で懐疑的議論がなされてしまうのだ、と言えるだろう。鏡/司ENDは、逆にある種の「確実な知識」(=鏡/司)を手に入れることができ、その宣言(=「魂」)によって生まれる「私」="由岐"が"由岐"として存在できたENDだと整理できる。

 この章での最後の由岐の台詞

 世界は器……
 器を満たすもの……それは
―『素晴らしき日々』Down the Rabbit-Hole STORY:A 水上由岐
この後にくる言葉はもちろん「(生きる)意志」だろう。つまり、ここで回答自体はほぼ出ているわけである。由岐も「私は私が得た真理を胸に……白い部屋から出る。」と独白しているように。例えば、『草稿』には次のようにある。

 神と生の目的とに関して私は何を知るか。
 私は知る、この世界があることを。
 私の眼が私の視野の中にあるように、私が世界の中にいることを。
 世界についての問題となるものを、我々が世界の意義と称することを。
 世界の意義は世界の中にはなく、世界の外にあることを。
 生が世界であることを。
 私の意志が世界にあまねく浸透していることを。
 私の意志が善か悪かであることを。
 従って善と悪は世界の意義と何らかの連関があることを。
 生の意義、即ち世界の意義を我々は神と称することができるのである。
ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1916年6月11日
 最後の「透明な白」の空間について。この「透明な白」の空間というのは、ここと終ノ空IIの冒頭に計二回出てきて、そこがつながっているのではないかと意識させる点で非常にうまい(つまり、最後、何時何処で由岐は眼を開いたのだろうか?)。あと、おそらく「透明な白」についてはウィトゲンシュタインの『色彩について』で透明な色や不透明な色の論理、ガラスの色・三次元の物質の色・光の色が問題になり、さらに何故"透明な白"や"灰色の光"が存在しないかが問題にされるあたりの文脈をふまえている気はした。

各断章雑感

 Down the Rabbit-Hole STORY:A以外の断章についてつらつら覚えている範囲で。

Down the Rabbit-Hole STORY:B

 鏡と司をもっとうまく使えたのではないかなー、という気はする。二人のノイズ感がもっとあればよかったと思う。

It's my own Invention

 希実香ENDでは、最後屋上から飛び降りたときに卓司と希実香は初めて抱きしめあうわけだけど、それは飛び降りによってようやく二人は救世主―信者という関係から男の子―女の子という関係になれた、ということで、個人的にはそのシーンが結構好きだったりする。この断章のTure ENDでは卓司と希実香はセックスしている一方で、この希実香ENDではセックスをしていない、というのがまさしく最後の「飛び降り」こそが関係性の移行を可能にしたという事実を強化してて大変良かった。そもそも希実香はこの作品においては明らかにサブキャラクターなのにも関わらず、この作品の中心的なテーマには触れている、という意味で特異なキャラクターで(ex.C棟屋上でのダンス・神と旋律・銀河鉄道のチケット…etc.)、そのノイズ感が僕は結構好きだった。

 あとは、科学哲学者イムレ・ラカトシュの「新奇な予言」という用語が割と自然な文脈で使われていた「新奇な予言」というのは、ラカトシュの提唱したリサーチプログラム説において、前進的プログラムと退行的プログラムを区別するために用いられるもので、普通に科学哲学の話になるのでやめよう
Looking-glass Insects


 アタマリバースENDでざくろは自殺をするわけだが、この作品のテーマである生を肯定するという観点から見たとき、もちろん自殺は生を否定するものとして、その対極に位置するものだと位置づけられる。Down the Rabbit-Hole STORY:Aにおいて、ざくろは自分のしたこと=自殺が罪だということ、そしてその贖罪をしようとしたことを由岐に告白しているけれど、それはまさしくこの認識があるからだ。

自殺が許される場合は、全てが許される。
何かが許されない場合には、自殺が許されない。
このことは倫理の本質に光を投じている。というのも、自殺は基本的な罪だからである。
ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1917年1月10日
ただ、ここで描かれるのは悲惨な「事実」に直面した結果としての自殺、というよりは意志/勇気をもてなかったが故に、「私=世界」を肯定する事=変えることが出来なかったが故の自殺が描かれている気がする。それによって素晴らしき日々ENDで描こうとする「生の肯定」の絶対性をより際だたせているのではないか。

 では一方のざくろHAPPY ENDはどうか。ここで描かれる「幸福」に関しては、一見したところでは、ある「事実」がたまたま成立したことによる「幸福」のように思える。そういう意味では、生を絶対的に肯定することが出来ているわけではない(それは一方の自殺ENDがあることからも明らかである)。だから、ここで描かれているのはある種のご都合主義END、世俗的幸福観に過ぎない。しかし、ざくろの世界は確かに変化していると言えるのではないか。ざくろは自らの認識を変え、「私=世界」を限界を拡張させたのではないだろうか。ではこの断章で描かれている「意志」は「現象としての意志」に過ぎないのか、それとも「倫理の担い手としての意志」なのか…。やはりこの断章が様々な意味で「蝶番」な気がしてならない。そのうち再読した


 そしてもちろん、『素晴らしき日々』という梯子は、登り切った後には投げ捨てられなければならない。

 しかし、本当にそんなことは可能だろうか?*15

 生の問題の解決を人が認めるのは、この問題が消え去ることによってである。
 しかし、生が問題的であるのをやめるような具合に、即ち時間の中にではなく永遠の中に生きる、という具合に、人が生きることは可能であろうか。
ウィトゲンシュタイン『草稿1914-1916』1916年7月6日
―――――いつか、辿りつけるのだろうか?
ー『素晴らしき日々』OPムービー
*1:G.E.ムーアは論文「常識の擁護」「外界の証明」において「自分が確実に知っているいくつかの命題が存在する」と主張した。その際に挙げられた命題をムーア命題と言ぶことにする。

*2:『確実性の問題』は「ここに一つの手があるということを君が知っているのであれば、それ以外のことについてはすべて君の主張を認めよう(1節)」という書き出しで始まっている。

*3:この見解は『論考』において既にみられる。『素晴らしき日々』における『論考』読解はこの部分に注意し、「懐疑主義からの決別」をはかったものだと言ってもいい。「問われえないものを疑おうとする以上、懐疑論は論駁不可能なのではなく、あからさまにナンセンスなのである。すなわち、問いが成り立つところでのみ、疑いも成り立つのであり、答えが成り立つところでのみ、問いが成り立つ。そして答えが成り立つのは、ただ、何ごとかが語られうるところでしかない。」(―『論考』6.51)

*4:これがたとえば「鉛筆」だったら使われ方は異ならないだろう。「私の鉛筆」と「あなたの鉛筆」といった時には、互いに同じようにそれをみているだろうから。

*5:「私の彼に対する態度は心に対する態度である。だが、彼が心を持つという考えではない。」(―ウィトゲンシュタイン哲学探究』)も参照。ここで述べられているように、この認識が「態度」であるということは重要である。

*6:ウィトゲンシュタインではないが、ローティの次のような言葉を思い出してもいいだろう。「人間は誰しも、自らの行為、信念、生活を正当化するために使用する一連の言葉をたずさえている。(中略)こうした言葉を用いて、時に先を見越しつつ、時に振り返りつつ、人生の物語を語る。このような言葉を、その人の「最終的な語彙(final vocabulary)」と呼んでおくことにしよう。それが「最終的」であるのは、こうした言葉の価値が疑われたときに、この言葉を使う者は、循環論法に陥らざるをえない、という意味においてである。この言葉は、私たちが言語を手放さないかぎり、どこまでもついてくる。」(―R.ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』)

*7:実際、すば日々においてもそのような意味で「意志」が使われていることが多い

*8:それはまた、『草稿』『論考』において最終的に、主体が世界の中にも外にも存在せず、私=世界/世界の限界となっているためである。この"私"は世界を見ることしかできない。

*9:「現実世界が自分の生である」ということは「懐疑主義からの決別」によって示されていると言ってよい。「意志」が問題となるのはその次のステップである。

*10:だからこそ、倫理が意志の世界への態度決定だと考えるならば、「倫理は超越論的である。」(―『論考』6.421)と言われるのだろうが、ここでは深入りしない。

*11:ここでいう「対象」は(客観的に)定まるものではない、というのが重要である。

*12:逆にこれを否定することが自殺である。wonderful everydayにおいては、琴美が出てくるところで自殺と意志の話がなされている。

*13:「倫理学と美学は一つである。」(―『論考』6.421)や「芸術作品は永遠の相の下に見られた対象である。そして善い生とは永遠の相の下に見られた世界である。………永遠の相で見られるものは、全論理空間と共に見られたものである(こんな思想がしきりと浮かんでくる)」(―『草稿』1916年10月7日)といった章句を参照。

*14:そしておそらく、これは永井均が論文「他者」等で述べている捉え方に近い(実在論はともかくとして)。先に引用した『草稿』における「世界霊魂」についての記述も同論文を参照。

*15:いわば、無時間性の中に人間が生きる、とは天使になる、と言ってもよい。それは例えばefで示された幸福観とはまた異なったものだろう、という幸福云々という話はまた機会があったら。