七夕伝説

 「七夕」には短冊に願い事を書き、笹の葉につるし、 七夕の晩にだけ逢う事が許された「織姫(こと座・ベガ星)」と「彦星(わし座・アルタイル星)」 に、短冊に書いた願い事をかなえて貰うよう祈る
 この七夕行事の起源については様々な説がある

「1.原始七夕伝承」「2.異郷訪問説話」「3.中国での起源」で、 七夕伝承が生まれるまで、その伝承の伝わり方などについて触れる
 次いで、日本にいつ話が伝わったのか、伝わってから行事になるまでを述べる

概要
 太古、世界樹又は宇宙樹と呼ばれる信仰があり、それは地上と天の中心の北極星とを結ぶ、宇宙の軸としての特別な「樹」であり、地球の歳差運動により、北極星は「こと座のベガ星」から 「こぐま座α星又はβへ」と徐々に移動していった
 ここに世界樹は東西と言う方向に分裂する、東と西それぞれに言わば神が出来た それが「西王母」と「東王父」、この信仰がやがて「織姫」と「彦星」に変化していった そして七夕説話に基づいた乞巧奠を、 宮中行事のとして初めて行ったたのが楊貴妃玄宗皇帝である

 日本へは神戸市博物館所蔵の桜ヶ丘銅鐸に刻まれている「水辺の西王母」からすると まだ銅鐸を造っていた時代に説話はすでに伝わっていたようだ、そして神話の時代には機織りの神:倭文神となったようで、朝廷の織部省にいた 「葛城」という機織集団が説話と何らかの関係を持ったようだ
 最初に七夕の行事をしたのは持統天皇であると言われているが、それは七夕の行事であったのか、それとも亡き夫「天武天皇」の供養で あったのか

時は今から1万3200千年遡る。この頃は氷河期又は氷河期があけた頃で、 歳差運動により北極星は現在の子熊座のポーラスターではなく、 後に織姫星となること座のベガ星だった
仏教やキリスト教が普及する遥か遥か昔では、 世界的な広がりを持つ「世界樹信仰」があった

 この世界樹又は宇宙樹と呼ばれる信仰は、「天地創造のときに、まず1本の巨木が生じて、 この巨木から世界は体系的に作られたとする神話」、この天と地を結ぶ一本の巨木から、 全てが生まれ、又全ての秩序が作られていったとする信仰

この宇宙樹は「地上と天の中心である北極星を結ぶ」言わば「宇宙の中心」 としての役割があった

現在伝わっている宇宙樹信仰では北欧神話の「宇宙樹ユグドラシル」・ 中国では後に「扶桑」と呼ばれるものになって行くまた日本では鹿児島県の「若木迎え」や諏訪大社の「御柱祭」などがある

鳥トーテム
●鳥トーテム
 宇宙樹信仰は、その象徴として「頭の部分に日月・中央部に有蹄類・下部にベビ」 などから構成される柱が、神体として扱われていたようであり、この柱の神体をトーテムと言う。 
 稲作起源は紀元前八五〇〇年頃の中国であるとされているがこの頃の遺跡から稲作に必要な「太陽」「水」「鳥」が描かれた土器が出土される、この中の「鳥」は朝に鳥がさえずり始めることにより太陽を呼び出すとする考えである

 中国の四川省成都の北部で「三星推」と呼ばれる遺跡が1987年に発見された、その遺跡には「青銅製の仮面」など多数の像が発掘されました。 そのなかに宇宙樹信仰を表す「神樹」や「崑崙山模型」があった

 「崑崙山」は言わば「霊山」で、そこには「西王母」が住んでいると言われており 現在残っている道教において西王母は「最高位の仙女」である

 先に述べたトーテムの色々な種類のなかで「鳥トーテム」が、 現在でも中国少数民族西王母信仰の残っているイ族にみられる、この鳥トーテムは一般にシャーマニズムとセットで信仰されることが多い、 鳥トーテムの神体は「鳥竿」と呼ばれ、 竿には柱・竹・竿・棒などが使われあ

 ト-テムと言う言葉は、アメリカインディアンの言葉で「親族」の意味し、母権制氏族社会の発生期に生まれる、 女性が子供を生むのはト-テムが女性の腹に潜り込むからと考えたから またアミニズムとは万物に霊魂があるとする信仰をさす、この霊魂との接触をもつ巫女の総称がシャーマニズムである

 このような意味でト-テムから派生するものの多くは「母権制氏族社会」、 つまり女性が巫女になったり、最高位の神になったりするわけであり、七夕のお話しの場合には後にしつこく出てくる「西王母」が中心的な役割を負っている

●卵生神話
 中国の古代王朝の夏王朝の資料は余り残っていないが、 殷王朝の資料は沢山ある
 殷の始祖伝説では、ある日水浴にでかけた簡狄は、 ツバメが落とした卵を飲んで懐妊して殷の始祖である契を生んだ

 中国ではこのような伝説は感生伝説と呼ばれており、 天の神の孫が地上に降り立ち王朝の始祖となる 天孫民族的な信仰が多い

 このような神話は鳥トーテム信仰のあった東北アジアの部族の間に色々伝わっている 例えば高句麗の祖先の朱蒙(しゅもう)は大きな卵から生まれていて、 清の祖先である満州族のプクリヨンソンは神鵲が落として行った 赤い実を飲んだ天女フクリンから生まれたと伝えられている

 このように鳥は卵を産むことから「鳥トーテム信仰」と「卵生神話」は重なるら鳥トーテムは中国に隣接するロシアやカムチャッカにも分布している

●宇宙樹の分裂
 宇宙樹は「地上と天上を支える軸」とされていて星々の中心に見える「北極星」と「地上」とを結ぶ
鳥トーテムの柱(ポール)は当時の北極星であるベガ星に向かって伸びていたことになる 時代は上記の話の通り夏や殷の頃まで
 宇宙樹は絶対神で、天地を疎通させる宇宙軸上で、 地上と北とを結ぶ南北軸であり、天地を結ぶ上下軸であった

 さて北極星はベガ星であったが歳差運動により天の北極は次第にベガ星より離れていった

歳差運動は地球の自転の向きと反対に地球がコマ振り運動をすることで、約24000年をかけて 一回転し、北極星はもとの星に戻っていく

 この絶対神である宇宙樹が南北軸に対して左右に、つまり東西に分裂をおこしたした

●東母と西母

 殷の王朝は、王が自ら祭礼等を行う神聖王朝であり、 天地自然の現象は帝の支配に属する事柄で、 農耕に関する雨風も帝が祈ることにより秩序が与えられた
その風は鳳の形で表されて神の使いで、その使者の往来は風のそよぎとして感知した
 殷の始祖である舜は太陽神であった、しかし後に太陽神は分離して 「朝の日を迎える朝日の礼」「夕の日を送る夕日の礼」 の2つの行事を行った

 「朝と夕」を象徴する神は東母と西母の二人の女神、 この東母と西母が後に東王父と西王母という対偶神となる

楚辞にヒントがある

 さて王朝の権威の象徴である暦の策定では、殷王朝においては 太陽が10個あったとする十日神話から10日を区切りとした旬日を基本にして、 月相が1巡(約29.5日)する三十日を併用した

 時代が進み周の時代になりますと新月から満月までの 約十五日を単位とする朔望(朔とは新月、望とは満月)の観念が中心となる。 つまり太陽神から月神への変化があっても不思議ではない

すると上記での「東母」が「東王父」に変化するのは「周の時代」とも考えられる

 あと秦の始皇帝西王母と逢う話があるが、殷も秦も始祖伝説を遡ると鳥トーテムに行き着く、その他は例えば夏の竜トーテム。 したがって神話は洪水伝説、高句麗も鳥トーテム。 だから壁画に西王母と織姫の混在したものがある

西王母と東王父
●月と太陽の属性
 さて、地球の歳差運動により、北極星の位置が「こと座のベガ星」から 「子熊座のポーラスター」へと変わってしまったことから 宇宙樹は東西に分裂を起こした
 鳥トーテムの本体である「軸(ポール)」は、東に太陽の象徴である東王父・ 中央には左右分裂を示す水の象徴である天の川・ そして西にはシャーマニズムの要素もある宇宙樹本体はベガ星の位置を保ったまま 西王母へと変化する

 「鳥」は東王父には太陽黒点を表す三羽の烏(又は三足烏)に、 西王母には両者を橋渡しする希有鳥へと分裂

 希有鳥は古代中国の宇宙観である天蓋説(地の上に天が傘のように被っていて、 傘の柄のような軸があり、その軸が回転する事により星が回って見える)の軸の下にいて、 両わきに東王父と西王母を抱えています。  西王母は1月1日と7月7日の年に2度、この希有鳥に乗って東王父に逢いに行く

現在では正月と七夕は別の行事であるが、 この話のように、この頃までは正月と七夕はセットの行事であった

 東王父は、シャーマン的な要素が強く残った影響から次第にその信仰が薄れ行く

西王母は不老長寿の象徴(道教に見られる桃源郷のように桃で表されるもの)でもある そこで月は欠けても必ず元に戻る事から、 場所をベガ星から月へと移動し「不死」の神格化傾向を強めた

 東王父も太陽から二十八宿の1つ「牛宿」へ移り、さらに二十八宿の「河鼓」へと変化し、 最後に現在のアルタイル星へと変化したのではないか


世界樹・宇宙樹信仰
●陰と陽
 分裂して日の沈む西に分かれたのが「西王母」、 太陽の昇る東に分かれたのが「東王父」である 「西王母」は月と女性の属性を持ち、兎や蟾蜍を伴い陰の精を表す駐推前漢墓に描かれてきる。「東王父」は太陽と男性の属性を持ち三足烏を伴う、 空心磚墓にも描かれ「太陽の中に三足烏がいる、それが陽の精である」と云う説明がある
次は西王母と七夕伝承から引用
 西王母は頭に「玉勝」を戴いている。西王母は、元来、ただ一人、 大地の中心である宇宙山(世界樹)の頂点にあって、 絶対的な権力で持って宇宙全体を秩序づけていた。 その秩序づけが、彼女の機を織るという行動に象徴されていた。 西王母は、いわば世界の秩序を織り出していたのである。

だからこそ織機の部分品である゛勝゛がその頭上に載っているのであった。 織機の部品の中でも、特に゛勝゛が選ばれたのは、一人で再生を繰り返す神のありかた (すなわち、円環的な時間の中にある存在)と織機の軸の回転とを重ね合わせて、 その軸の回転を制御する゛勝゛を象徴的に使用したものと推測される。




●東王父
 西王母が陰の要素を濃くしてから、その対照として陽としての東王父ができた、東王父のかぶりものは「三維冠」で゛維゛と 呼ばれているのは天地を結ぶ大綱を指すと考えられている それが「三」であるのは、3と云う数字が太陽神と係わりが深いためである
三足烏や3羽の鳥に引かれた太陽を運ぶ雲車なども「3」の数字
淮南子のゲイのお話から~
昔中国で一度に10個の太陽が出現した、時の皇帝は「ゲイ」という弓の名人を呼んで、 このうちの9個の太陽を射落とした

その射落とした太陽を調べてみると、 9羽の真っ黒なカラスであった

広益俗説弁にいわく
時は垂仁天皇の御代で、太陽は9つ。 武蔵野国入間郡で打ち落とした

八た烏から~
淮南子に「日中にシュンウあり」という記述があり、 このシュンウが3本足の烏であると解釈されている、天照大御神と高木神によって神武天皇のもとに派遣されたヤタガラスは、 天照大御神を祀る神社のノボリに三本足の烏として書かれている

夫婦げんか
 月に住むと言われるガマガエルの正体は 「太陽を射落としたゲイ」に西王母が不死の桃をあげようとしたところ、 サット盗んでいった東方朔が月まで逃げていってガマガエルになった話もある
 ゲイが「三足烏を打ち落としたご褒美」とは、つまり「陰であり月である西王母」と 「陽であり太陽である東王父」とが夫婦げんかをしている話

 七夕伝承の1つに、夫婦喧嘩をして牽牛と織女が物を投げ合う話がある

牛郎は牛の鼻輪を投げたのが織女三星。織女は機織りの道具の梭を投げる

それが河鼓・鷲座三星



織女三星はこと座のLyr3α星(ベガ) Lyr4ε星 Lyr4ζ星

河鼓三星はわし座のAql53α星(アルタイル) Aql50γ星(タラゼド) Aql60β星(アルシャイン)の鷲座3星


注記


 古代中国:殷の時代の宇宙観では、太陽は全部で10個あり、毎日交代で空を廻る。 それぞれの太陽に甲乙丙丁など十干の名があまして、それを司る10人の神巫がいる、太陽は東方の扶桑の木の枝からから昇って、西方の若木を経て、 地下の虞淵にほとぼりをさます 旬もこれに由来する

 北欧神話に出てくる宇宙樹ユグドラシルは、全世界を貫いて生えている、 ユグドラシルには三本の根があり、それぞれ「神々の国」「霜の巨人の国」「霧の死の国」 の3つの世界へと伸びている
 「神々の国」の根の下にはウルドの泉があり、そこには3人の運命の女神がいて、 ユグドラシルが枯れないように世話をしている 「霜の巨人の国」の根の下にはミーミルと云う智恵の泉があり、 最高神となるオーディンはこの水を飲むため片目を失う、「霧の死の国」の根の下にはフヴェルゲルミルの泉があり、 ニドヘグと云う毒竜がユグドラシルが枯らそうと根を噛っている

 主神オーディンと悪神ロキとの戦いの時にユグドラシルは燃え、 大地は海中に沈んでしまう、これがラグナロク

殷の契の怪誕説話
 帝の高辛氏の妃の簡狄が春分の日に春を迎える行事が終わった後に、 妹と川辺を歩いていたところ1羽の燕が空に飛んでいた、 その燕は口にくわえていてた五色の卵を二人の間に落とした姉妹はその綺麗な卵を取り合ったが、簡狄が「これは私のよ」と言うと口の中に押し込み飲んでしまった
 やがて彼女は身篭り、月日が立ち胸が剖けて男の子が生まれました。
 これが契で後にギョウに仕えました。(史記,拾遺記)(竹書紀年)
周の武王の怪誕説話
 帝の高辛氏の妃に,姜源という女性がいて、 帝と一緒に神を祭っていると大地に巨大な足跡がついていた 彼女はその足跡を踏んで見たらやがて身篭った

二十八宿は中国の星座区分で、インドの二十七宿から来ている
 月が1つの宿に一泊ずつ止まり28日で一巡する、その中の星座で七夕に関係するものを抜き出した
 「須女」が「織女三星」に、「牽牛」が「河鼓」へ変化したのであろうと言う説は 天の川に相対する2星であるからとする理由そうであると仮定すれば、二十八宿西王母信仰とどちらが先なのか

牽牛

 この6星は、天の関所・橋のことで、祭りのときに供える犠牲を司る
 上の星は道路を管轄。次の星は関所・橋・梁を管轄。その次の星は南越地方を管轄 する
その他「牛は日の神に捧げるもの」「羊は月の神に捧げるもの」である
須女
 この四星は天の衣食を司ります。「須」とは布を織ったり、 裁縫をしたり、嫁入りの世話をする意味がある
○天津
 この九星は「天の川」の中にあり別名「天漢」「天江」とも云います。
長江・黄河・淮水・済水の四大河の渡場・橋を司るそうです。 この天津はカササギと関係があるのか。 また同じ「橋」を司る牽牛がどのようにかかわるのか また天の川は東方に始まって、尾と箕の間をとおり、2つの道に分かれ南の道は傳説(ふえつ) ・魚・天やく・天弁・河鼓をとおり、北の道は亀・箕の下・南斗の頭と左旗とをつなぎ、 天津の下で南の道と合流するとある
○農丈人・中国の科学 世界の名著 中央公論社より引用
 農丈人とよばれる一つの星は、南斗の西南に位置している。老農であって、 穀物の収穫を管轄する。狗と呼ばれる二つの星は、南斗の東部のまえに位置している。
 吠えついて家を守のが仕事である。天田とよばれる九つの星は、 牛の南に位置している。羅堰(らえん)とよばれる九つの星は、 牽牛の東に位置している。大きな馬である。それで雨水をせきとめて蓄えておき、 溝(変換不能文字A)にそそぐのである。九カンとよばれる九つの星は、 牽牛の南に位置している。カンとは溝Aのことである。 源泉から水を導いて満々たる水を流し、溢れる水を注ぎ、田畑の溝に通すゆえんである。 九カンのあいだにある十の星を天池という。別に三池ともいい、また天海ともいう。 田畑の灌漑にかんすることがらを管轄する。
○農業
 ショクの五つの星は七星の南に位置して、農業を司ります。 百穀の長たる「きび」の官職の名をとった
 二十八宿星図はおよそ283官、1464星ある 史記などは星座に役所名がついていたこれでは神話の記録があまりない 神話の生まれる時代と諸子百家の時代とが同居している、 又は中国の方は実利的で神話は真面目に扱われなかったのだろう、兎に角神話・伝説・伝承の記述が少ない


七夕の伝承ルート
●異郷訪問神話
 タイの神話の中に、インドが起源ではないかとも思われる「異郷訪問神話」がある「天人女房」と「浦島太郎」が1つの話になっている神話、 この中の「天人女房」の説話が「天人女房」と「竜女説話」に分離する
 分かれた後の「天人女房」説話は、色々な難題を課せられる「難題型」・ ニつの星に別れ別れになる「七夕型」・北斗或いは昴の7つの星のうち一つが帰らず 地上の王家の祖先となる「七星始祖型」の3つに分類される

 これらが【雲南省から北上して中国へ】その【中国南部から更に南下してベトナム・ フィリピン・ルソン島へ】と伝わっている

「浦島太郎」は民話の分類としては「豊穣、或は、富をもたらす民話」

異郷訪問神話の名称・伝説の比較

ストン王子 Sudhana Phra Suthon Zhao Shutun 召・樹屯
マノーラー姫 Manohara Nang Manora Nan Muluna 喃・(女若)娜
北パンチャン国 Uttra-pancala Uttarapanchan Banjia 板加


●伝播
 インドの「スダナ・クマーラ・アヴァッダーナ」の説話が、 タイの「ストン・チャードク」としてほぼ忠実に説話が伝わり、 説話が伝承された地域で、もともとあった説話と融合分裂を繰り返した形跡がある
 現在タイ南部舞劇に「Noraノーラ-」と云う劇がある、これとほぼおなじ説話である中国の西双版納の舞踏は「孔雀の舞い」という、このように異郷訪問神話はインドから稲作の発祥の地「雲南省」へと伝わったと思われる、ただし説話が全く逆のルートで中国からタイへ、そしてインドへと伝わった可能性も否定できない



異郷訪問神話と羽衣伝説
●羽衣伝説比較表

比較 タイ国 中国
始まり 竜王が猟師に命を助けられる 男が動物を助ける
水浴 竜王の手助けで 動物に教えられ
飛来 池に飛んできたキンナリーを捕らえる 沐浴中の天女の羽衣を隠す
天女 キンナリーの一人マノーラーを妻とする 天女を妻とする
子供 なし 子供が生まれる
帰る 誹謗にあい殺されそうになり翼と尻尾を帰して貰いカイラートに帰る 羽衣を手に入れ
追跡 マノーラーの教えた方法で後を追う 天まで追いかける
結末 父の難題を解決して再び夫婦となる 難題型・七夕型・七星型
●伝播
 まずタイの「竜王
生産的な農耕の方法を見つけて国が豊かになり、 隣国の王に妬まれて殺されそうになる、この「生産的な農耕の方法」とは何の事であるかは わからないが、豊穣を意味する話になっている
 中国ではこのタイの「竜王」が竜女伝説や竜王伝説へと独立する。 浦島太郎では竜宮城へ行くが、お土産の玉手箱は、財宝又は豊穣を意味する

 次に「夫が天まで追いかける」方法ですが、中国では「天女に抱えられ一緒に行く」 「助けた動物の皮を使って飛ぶ」などに変化している

「難題型」「七夕型」「七星型」への変化です

●変化
難題型は天女の親から無理難題を課せられて、 助けた動物から知恵を授かり難題を解決してゆく等の話で、 解決できないで地上に帰れなくなる話もある
七夕型は難題が解決できないで、二人が7月7日に一度しかあえないもの。 3月に一度を3年に1度に聞き違えてしまうものなどがある
七星型は天女が7人降りてくるが「北斗七星の七」と「昴の七」の話があるようで、 昴の七は、天女の一人が王族(七夕始祖型)となり星の数が六になったものがある
●三体機能と二極対立
 この変化の中でインド・タイに於いては「知」「力」「豊穣」のインド・ヨーロッパ語族の特徴で ある三体機能があるが、中国に渡ってからは天上と地上の二極対立へと変化する、ここに訪問説話が「竜女」「浦島」「七夕」などへと分離していく理由がある


●異郷訪問伝説と星型羽衣説話
 異郷訪問伝説はインドからタイに渡った時点から「星」を加味した話へと変化していった
表:「日本民間伝承の源流」より抜粋引用
比較 インド タイ
国王 大いなる財 太陽
王妃 不明 月の女神
人数 5百人 七人の姉妹と侍女千人
飛翔力 宝玉のかんざし 翼と尾
夫が後を追う時間 不明 七年七月七日
王妃との再会 不明 七日間
 伝承がタイに入ると全体に聖数の7が多くみられる、また国王と王妃は太陽と月、 7人の姉妹は「太陽」「月」「火星」「水星」「木星」「金星」「土星」を象徴している

またインドでは飛翔力は「かんざし」で国王の「大いなる財」に掛かっているが、 タイでは国王は「竜王」であるので「翼と尾」に変化している

 夫が後を追う時間では、夫の地上時間は7年7月7日だが、天女の天上時間では7日であって、浦島太郎現象が起きている

こうした伝承は一度に伝わるものではなく、間隔を置いて波状的に何度も伝わるのが通例であるからその伝わった時代の状況で話が変化していく

中国における分布
●星型羽衣説話の中国における分布
七夕型は七夕説話と羽衣説話が融合したもので揚子江より北方に分布
七星始祖型は七星と始祖伝説が融合したもので揚子江南の主として沿海地方に分布(始祖型のみのものは北にも伝承している)
難題型は天女を追って男が天に行き、天女の父から何か難題を課せられるもので、西南少数民族の大部分・広東・福建・山東・東北 蒙古など広く分布
 このなかの難題型の難題の種類だが、漢族では虫や蛇の害、少数民族では力試しや知恵試し、 山地民族は焼き畑の全過程がある農耕や虫害と云った項目が多いのが目につく「捜神記」や壮族の話には「田」「稲」等も出てきていて、 焼畑・稲作の両文化が共存しているようにも見える 始祖型のみの分布からみてやはり伝承は北上していった気配がある

 タイから中国に伝承が入った地域が少数民族の多かったことから 伝承が様々な形に変化していった

伝承経路
●七夕の3つの説
七夕の伝承は大きく分けて3つの説がある
農業生活を上代漢民族で、2星が接近する7月の男女相思の説話であるとする説
五穀豊穣の神事祈祷の生命力を象徴する穀神(神牛)と豊穣の女神との会合が牽牛織女の伝説になったとする説
西王母と東王公が分裂し、二星の会合は宇宙の再生を意味するもので、その信仰が薄れ牽牛と織女になったとする説。
●民話の伝承経路
 七夕に関係すると思われる民話の経路を「民族学」の本で探して見れば
インド--モンゴル--アルタイ--ブリヤート・ヤクート

モンゴル--中国-----ブリヤート・ヤクート

インド--タイ--中国--ブリヤート・ヤクート

 以上のような経路が考えられ通常の伝承経路の説(1920-1930年代)は、 上記の図と逆さまの経路で、アルタイ語族印欧語族へ牧畜文化とともに影響を与えたとされている しかし最近の説(S60ぐらいから)では秩序だった農耕文化が牧畜文化へ影響を与えたとする考えが 多く出てきている伝承は西から東の方向

●民話の伝承経路

 民話などの伝承はブリヤートやヤクートに集まる傾向がある 民話はこの地において一番原形をとどめた形で存在することが多い
 またこの地の神話は日本神話に非常に良く類似している

●三神一体
 インド・ヨーロッパ語族には共通の神界の構造や 特徴(フランスのジョルジュ・デュメジルの説)がある。 この印欧語族のうちにイラン系譜遊牧民がいて 彼らの遊牧文化を継承したのがアルタイ系の遊牧民である
 「三神一体」の神話 (例えばギリシア神話のモイライ運命の三人の女神などのようなもの)は、 このような経路で西から東へと伝わっていった

日本は原始アルタイ語族に属しますので、日本神話とギリシア神話が似ていても 不思議ではない。 七夕の「牽牛」「織女」「天漢」の構造は、 この「三神一体」から来ているとも見れる 


牽牛と織女
●信仰の変化
 世界樹から分裂した西王母と東王父は、春秋戦国時代に至りその信仰が次第に薄れていく、宇宙軸は機織りの部品にデフォルメされて伝えられ、 七夕や月中の織女の話などが 混ざり合ったのではとも思える
 もともと西王母には機織りの神としての役割があったのかは未だ分からないが この時代の壁画などには機織りの道具を持っているものもあり、この時代に、牽牛はアルタイル・織女はベガに割り当てられたと考えられる
 秦の時代になり鉄器文化となり、又、灌漑事業が進み、男性は牛を引いて田を耕す、 女性は機を織る図式が出来るとともに現在に残る七夕の話が完成したのではないかと考えられる

七夕説話の完成
 さて七夕の起源は早くとも春秋戦国時代の中期、完成は後漢の末期であろうと思われる 農耕の発達・書物・天体観測の3点で話す
●農耕の発達
 中国での農耕の始まりは非常に古い、鉄器の農具は春秋戦国時代に普及し、また灌漑農業は漢の時代になる、この頃にほぼ農耕の手順などが確定した、男性は牛を引き農作業、女性は桑を育て蚕を育て機を織る図式が出来た。 宗の時代になると農作業の手順が「絵」によって表されて来る
 七夕の土台となる「牛引き」「機織り」は、灌漑農業が出来た漢の時代前後から更に遡ると農作業の定形として一般化していないように思われる一般化していなければ、 七夕伝説の普及は難しい

詩経の小雅大東の詩

 漢 かわ は、以前の説明の通りに、漢水を指す説が最有力
牽牛は、史記天官書に「牽牛は犠牲を為す。その北に河鼓あり。河鼓の大星は上将にして、 左右は左右将なり」とありますので、牽牛は二十八宿の牛宿を指していて、 その北の河鼓が現在の牽牛(アルタイル)らしい。「将」とあり、七夕とは関係ない
この書物は漢代
 織女星は、同じ書に「織女は天の女孫なり」、春秋緯元命包には「織女の言いたる神女なり・・・」と 詩経の話に準じている、この中で「織女は瓜果を主どる」とあるので、供物を供える元かと思われる、晋書天文志(後漢末期の三国時代の後の晋)では 「織女3星は天妃の東端にある天女である。果瓜糸綿珍賽を司る・・」と「糸・綿」が出てくる

 具体的な七夕の説話が本に登場するのは、梁(502-556)の荊楚歳時記に七夕の説話は完成している、春秋戦国時代に既に説話はあった事になる。 その後カササギの話などがつけ加わり後漢末期に、ほぼ現在の形になった、但し荊楚歳時記には、七夕の話の骨格のみで、付随的な話が省略されていたとすると、 この考えは覆ってしまうが、また荊楚歳時記は当時の風俗を述べた書で、 作者の創作を語っている可能性も多分にある

天体観測(7月7日)
 牽牛星織女星が7月7日に接近するのは目では観測不可能、長焦点の望遠鏡とカメラが必要、それと太陰太陽暦での7月7日なので現在の暦に直しますと6月から9月まで幅がある、初めて視差の値が観測されたのは1838年
 天文よりは陰陽五行説から7月7日の「ぞろめの奇数の日」が当てられたと考えられる

漢代の話
●客星であった張騫
 天の川の源流を探し出せ。との漢の武帝の命を受け武将張騫は、舟に乗り天の川を遡っていった。 数カ月後に何ことも知れぬ地に辿り着き、ふと川岸を見ると、一人の女性が機を織っている。 その傍らには一人の翁が牛を連れ立っている。 此処は何処かと尋ねると「ここは天の川で、我々は織女星牽牛星です。貴方は誰ですか?」 と問い返され、張騫は「私は武帝の命令で天の川の源を探りに来たの者です」と答えた
 すると二人は「此処が源です。そろそろ引き返された方がよいでしょう」 張騫はその言に従って引き返し、武帝にこのことを報告した。

 このとき天文官が「7月7日に、天の川に大きな客星が出現してします」と上奏し  ・・・と話が続く

 張騫は牽牛織女の逢う7月7日に、天の川の源流まで辿り着いた、それを下界から見た天文官には張騫は客星に見えたわけだ

 漢の武帝の頃はBC140年頃です。ローマのプリニウスの本に、BC134年7月、 さそり座で新星が現れた記述がある

乞巧奠
●乞巧奠
 唐の玄宗の時代になり、織物の上達を願う乞巧奠と言う祭りが7月7日に行われ、 七夕は「星祭り」として確定していったと思われる
 祭りの日が7月7日に決まったのは、陰陽五行説に基づいており、 陽の数が重なった日である7月7日に、 互いに強く慕い合う牽牛・織姫の2つの星がその日だけ会えるという説と、 七夕と乞巧奠(女子が裁縫や手芸の上達を願う上代に行われていた風習)とが結びつき、 願いが叶えられるという意味で両星を祀り、 裁縫や手芸の上達を祈るという1本の行事となったと言う説もある
 七夕は7日で七日月(上弦の月)で星見に月明かりが邪魔にならないで、 しかも夜半には夏の大三角であるベガ・アルタイルの位置も見やすく、 農作業もひまなときなので好都合だったのだろう

 因みに七夕とは中国語であり、日本では棚機(たなばた)をそのまま七夕の訓としたもの

 唐の玄宗皇帝といえば傾国の美女楊貴妃楊貴妃は華清池に湯を賜り、 天宝十載(751)7月7日、麗山の離宮にある長生殿において比翼連理の誓いを結んだ、「比翼連理」とは白楽天の「長恨歌」によって一躍有名になった言葉で、 天上では翼のついた二羽の鳥、地上では枝がくっついた二本の幹のように、 夫婦の深い契りを言う

●乞巧奠の行事
 7月7日の牽牛と織女が相会する夜に、夫人たちは7本の針に5色の糸を通し庭に むしろをしいて机を出し、酒、肴、果物、菓子を並べて織物が上手になることを祈った
 織女、牽牛伝説に関連し乞巧奠の行事が生じ、日常の針仕事、歌舞音楽の芸事、 そして詩歌文字などの上達を願う行事へと発展した

 このように中国では七夕の行事は唐の時代より盛んになり、 玄宗が長生殿に遊興に出かけたときに女官たちが乞巧奠を行ったのがはしりといわれている

日本では孝謙天皇天平勝宝7(755)年に宮中で行ったのがはじめとされている