F.Beiser “German Historicist Tradition”



Introduction : The Concept and Context of Historicism

 

1 知的革命

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“歴史主義の成立”のノスタルジックな前文において、マイネッケは、歴史主義が西洋思想における最大の知的革命のうちの一つであると述べた。歴史主義が知的革命であると、マイネッケは信じていたのだ。歴史主義は、古代から中世を通して蔓延していた従来の思考法を、18世紀中旬より始まる、新しい歴史学的思考法で転換したと言うのが彼の見立てである。旧来の非歴史的志向は人の道徳性や理性を絶対的で、どこにおいても同一であり、変わることはないとみなしていた。新しい歴史的方法はそれを相対的で、変わりうるものであり、それぞれ固有性をもつとみなし、歴史的事象の原因や価値、信念、行為がコンテクストに依存することを示した。そのため、価値のその時代や状況を離れた普遍化は不可能であると言うのである。

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現在マイネッケはあまり顧みられなくなったが、歴史主義の重要性を否定する議論はそれほど存在しない。仮に私たちがマイネッケのテーゼを受け入れるとしてこのような問いが生じてくる。歴史主義とは何であるのか、歴史主義者とは誰のことを指しているのか、その思考法の核心は何であるのか、どのようにして彼らは自己を正当化していたのか といったものである。

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歴史主義に定義を与えようとする試みはたちまち大きな障害に悩まされることになる。その語のもつ多義性というのがそれであり、様々な、時には対立するような方法で用いられてきた。例えば、歴史の一般法則を描く試みとして定義されたり、それとは反対に、そのような法則の存在を否定し、固有の一回性をもった出来事として歴史の固有性を知ろうとする試みを指すこともあった。このように対立的な用法が存在する中で統一した核心の存在を仮定する訳にはなかなかいかない。

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そのため、歴史主義に対しては記述的な定義を諦め、規範的(prescriptive)に定義を与えることで満足せねばなるまい。規範的な定義は、我々の探求を促進する形で行われる。我々の関心は、マイネッケの言うところの知的革命の起原を辿ることであるからして、その目的に合わせて定義する。そのためにも、彼の言うところの革命に寄与した歴史主義者達に基づいて定義を行う。

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私たちの定義はトレルチに従ったものとなる。彼は、否定的な面を捨象すれば、歴史主義は以下のように定義されるという。”歴史主義とは、人間や文化、価値に関する思考の根本的な歴史化である。”思考の歴史化とはいかなるものであろうか。トレルチはそれ以上の定義を与えてはいないため補足を行う。つまり、文化、価値、制度、慣行、合理性といった人間に関わるもの全てが歴史により形成されてきたという思考に身を置くことである。そこには歴史的変化に絶対的に堪える普遍的なものは存在しない。つまり、人間事象に不変なもの、可変なものといった区別は存在し得ないのだ。それらは固有のコンテクストに依存する外ない。ヘラクレイトス主義的な流動の思考というわけだ。

 

 

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今行った定義はあまりに形而上学的ではないだろうか?歴史主義が„Weltanschauung”,世界観の一つに過ぎないことは自明である。それは、近代科学に力を得て生じてきた、自然科学に匹敵する人間世界の科学を立てる為に出現したものである。歴史主義は二つのドグマが存在する。1.人間事象の全てにはその生成に十分な原因が存在する 2.その原因は全てコンテクストに依存した、歴史的なものである。

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非常に大雑把に見ると、歴史主義は自然主義に対応する存在である。自然主義が自然的世界に存在する全てを原則として科学により説明可能であると述べると同様に、歴史主義は歴史的世界に存在する全ては原則として科学によって説明可能だと主張する。そして、自然主義が最終的に自然史を描くにおいて、安定した不変の種の存在を否定することと同様に、歴史主義は不変の人間本性といったものを否定する。歴史主義は自然主義の自然史の手法を利用し、人間事象に適用したのだ。

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自然主義との類似があるとしても、歴史主義は自然科学の法則や方法の人間世界への適用といったように、単にその一種、模倣なのではなく、歴史主義者は、必ずしも自然界と同様の方法や、法則で説明可能であると主張する訳ではない。実際歴史主義者内部でもそれらが同様であるかは一概に定まっていない。

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歴史主義は自然主義に反対して、歴史学的知識はユニークなものであり、自然科学のそれとは異なると主張してきた。マイネッケ、トレルチなどはこの立場を採用する。しかしながらここには重大な2つの問題点が存する。

1.実際のところこのような立場は歴史主義者においても少数派である。19世紀後半のドロイゼンやディルタイもこのような立場を取り、彼らの理解(Verstehen)という方法を自然主義に対立するものとして構想してきたが、彼らの方法論から歴史主義を定義するのはこの語の他への応用が困難となり、歴史主義者はこの二人に限られると言わざるを得なくなってしまう。

2.歴史主義は18世紀の、ニュートン力学の方法と法則を歴史に適用することで”人間の科学”を構想する自然的方法論に端を発するものであり、クラデニウス、メーザー、ヘルダーそしてフンボルトはこのような方法論の一大旗手であった。これらの歴史主義者の根源的役割は後世の歴史主義の研究者-特にマイネッケからは小さく見積もられてしまった。そのため、歴史主義と自然主義の明確な相違を主張するためには、彼らを歴史主義の伝統の外にあるものとみなさなくてはならなくなるが、そのような帰結は受け入れ難い。自然主義との対抗はドロイゼン、ディルタイといった後世の歴史主義から生じてきたものであり、反自然主義的に歴史主義の定義を与えることはアナクロニズムに陥る。

 

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加えて、歴史的変化がいかなる事象にもつきまとう という歴史主義の中心的テーゼは二つの原理を伴う。

1.個体性の原理 この原理は歴史主義の伝統で大きな意味を持っており、その意味はその時々のコンテクストに依存しているが、一般的な定義するならば、歴史的の主題の決定や、歴史学の探究の目標というものは個体的であるということだ。例を与えるならば、特定の人、行為、文化や時代は特定の時間と場所において存在しているということだ。この原理はプラトンアリストテレスにまで遡ることができるが、歴史主義者はそれに新しい意義を与えた。物事の個体性は、物事が個々の相違に関わらず存在する普遍性や、法則がそうであるのと同様の意味で、科学的な対象であると主張したのである。

2.ホーリズム 非常に大ざっぱに定義すれば、全体は部分に先立ち、それら部分に還元できないという主張である。ヘルダーからウェーバーまで、ホーリズムは歴史主義に特徴的であった。歴史主義者は個々の人間が自己充足的な存在でも、独立している訳でもなく、彼らのアイデンティティや存在それ自体が歴史的、社会的、文化的な全体世界における位置づけに依存すると主張した。このホーリズムの主張に従えば、社会や国家などは、単なる独立した部分の集合体、構成物とみなすわけにはいかなくなり、相互に依存し合った要素から成る不可視の全体、結合というものを仮定することになる。全体は部分に還元できるとするアトミズムは、古い機械論的思考の産物として否定される。これら二つのテーゼは連関し合っている。個体は還元されない全体として理解され、それら全体は個体として理解される。

 

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更に歴史主義には、古い哲学的前提、14Cのオッカムより発する唯名論を基礎においており、歴史主義者達は、様々な方式でそれを受け入れた。それは、普遍というものを、精神の構成物とみなし、独自の実在性を認めず、物に内在するものともしないという立場である。この立場は、変化、流動がいかなるところにも存在しており、永遠の形相の否定を行い、個物を優先させると言うという方法論に適合的であったため、歴史主義に資するものであった。唯名論の立場に立つことにより、歴史主義は、歴史家が、精密性、明確な因果関係の把握や、特定の事物にはそれ独自の具体化の方法を取るように促した。特定の思考、意図、信念の意味や目的というものは、それを具体化した言葉や行為、特定のコンテクストに依存しており、そういった具体化されたものは、共役不可能であるため、人間本性に対して単一の形相などを見出すことはできないのであり、特定の時や場所に従った表現、具体化を離れて価値や本性について話すことは単なる抽象論に終始してしまうというのが彼らの主張である。

 

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歴史主義の唯名論的要素は、広く行き渡っており、根幹に関わる物であるのにしばしば見落とされてきた。むしろ、彼らのホーリズム的側面から、形而上学的傾向が強調されてきたのである。確かに、ホーリズムは、抽象的普遍的な実在が個物とは独立に存在していることを肯定しているとみなされ、唯名論に敵対的だと考えられてきた。一見するとこの主張は正しそうに映る。個物のみがそれ自体で存在していると考える唯名論に立つならば、全体という物は部分の構成する抽象観念に過ぎないというべきに思われる。しかし、ホーリズムの立場において、部分と独立した全体の実在を措定することは必ずしも必要ではない。全体は実のところ部分によって存在すると主張してよい。ただ、理論において説明的に部分に先行して存在すると主張することはやはり可能である。歴史主義者が、両者を両立させることは可能であり、彼らを本質主義、抽象的対象を実在すると見做しているとして非難することは些か的外れなのだ。

 

2 科学としての歴史学

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歴史主義は抽象的な知的潮流に留まらず、人間世界に関わる思考を歴史に基礎付けようとするものである。それらの伝統を一貫したものとして認識させるものは、彼らの方針、目標、企図によるのだ。方針は、単純だが熱意に富んでいる。歴史に、科学としての正統性を与えることであった。それは、歴史を科学に変質させるということではない。-おそらくルネサンスの時点ですでにそれは成し遂げられているのだ-そうではなく、歴史を科学足らしめているものを明らかにしようとすることを意味していた。歴史主義の思想家は、自然主義反自然主義のどちらに他党とも、歴史の科学的地位を正当化しようとした。ここで言われるところの、「科学」とは、独語の„Wissenschaft”の意味に相当し、広い意味を備えている。„Wöterbuch der philosophischen Begriffe”に従うと、「整序された、知識獲得の方法」という定義があるが、これは適合的だろう。詳細な定義においては、歴史主義者間で相違はあるが、同様に、歴史学の科学としての地位を確立しようとした。歴史主義による知的転回は、同時に新しい歴史への姿勢を備えており、それは、歴史は自身の内的な正当性でもって、科学たりえ、新しい自然科学同様の尊重を得られるということであった。

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アナクロニズムを避ける為にも、私たちの先入見であるところの、近代的、実証主義的な科学の概念を歴史主義者による定義に持ち込まないようにしよう。その概念とは、科学と人文学(art)が対立するというものである。歴史主義者は、歴史を科学として鼎立しようとしたが、それが人文学としての地位を放棄するものとは全く考えていなかった。主要な歴史主義者達は、歴史学は人文学と科学、両者のもとにあるものとみなしており、ドロイゼンのみが、人文学と科学を確然と区別したが、それは有力な説とはならなかったが、人文学と科学の関係は、彼らを立場において分かつことになるだけの問題となった。しかし総じて、歴史学が科学であるために人文学とは異なるという主張を導くことにはならなかった。もう一つの先入見は、歴史の成果が、歴史家の地平に全く依存せずに妥当性を有する。というような、完全な客観性を記録できるときにのみ、歴史が科学であると主張できるといったものである。クラデニウスにより歴史主義の伝統が創始された際でさえ、歴史は科学たりえるが、依然として地平に拘束されたものであると主張された。歴史家の立場に立つことによってのみ妥当性が得られるといった主張がそれである。このような、ある観点に依存していることは、歴史の科学たる地位を脅かすものではなく、支えるものであった。知識は依然として、視点に依存して存在しているものであり、その相対性を自覚することで初めて、絶対的、超越的な立場に立った主張を行うことに伴う誤謬を回避できるのである。この議論は更に進んで、ヘルダー、ジンメルウェーバーや新カント派によって、様々な形式を与えられた。歴史学は、客観性を要求するかという議論は、歴史主義者たちにとっては一般に想定されるものとは別の問いを意味していたのだ。故に、私たちはあらゆる伝統を客観性と言う素朴な概念に基づいて均質化してしまうことはしないようにしよう。そうするならば、歴史主義の全伝統を、ランケが誤解して捉えたものと同様のものにまで狭めてしまうことになる。

 

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歴史主義の企図において科学の概念がいかようであろうと、その試みは、歴史学的というよりは自然科学的なものであった。歴史学の科学としての地位を正当化する際に、認識論的な問題を主張することは重要である。歴史学における知識というものはどのようにして可能になるのか?自然科学における知識との相違は何であるのか?客観的な歴史学的知見は可能であるのか?歴史学と人文学との関係は何であるのか?そのような疑問を考えてみると、歴史主義者達の関心は、一次的な歴史学ではなく、歴史研究の方法論や、歴史記述の方法や基準といった二次的なものに向けられることは明白であった。そのため、歴史主義とは本質的には哲学的な伝統であるのだ。18世紀後半より、歴史家が哲学的に考察を行うようになり、哲学者が歴史について考察するようになっていったのだ。

 

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哲学的な伝統であるからと言って、歴史主義が歴史哲学における目標や問題と同視されてはならない。歴史主義の伝統は本質的には歴史学的知識の二次的考察を含んだ認識論的な思考であり、歴史の法則や、目的、意味といった一次的思索を含んだ形而上学的なものではなかった。歴史主義者はしばしば、歴史哲学への批判者であり、そのような形而上学的性質は、歴史学の科学としての性質を損なう物であると警戒していた。未だに強く残っている歴史主義を歴史哲学と同視する考え方は改められねばなるまい。

 

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主な歴史主義者は、歴史主義の認識論的構想に着目することで見分けられる。彼らは歴史学の科学としての身分を正当化するために貢献した歴史学者であり哲学者でもあった。クラデニウス(1710-59),メーザー(1729-94),ヘルダー(1744-1803),フンボルト(1767-1835),サヴィニー(1779-1861),ランケ(1795-1886),Moritz Lazarus(1824-1903),ドロイゼン(1838-1908),ヴィンデンバルト(1848-1915),リッケルト(1863-1936),ラスク(1875-1915),ディルタイ(1833-1911),ジンメル(1867-1918),そしてウェーバー(1864-1920)である。

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もちろんこのリスト以外の多くの主要な歴史主義者がいることは疑い得ない。ゲッティンゲンの古典主義者達などはその典型だろう。しかしながら、私たちは歴史学の科学としての地位そのものの生成を負うのではなく、それを正当化しようとする伝統を追っていくのであり、そのため、少なからぬ哲学者がリストに含まれ、歴史学者が含まれないという事態になったのである。

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ヘーゲルマルクスは歴史主義者ではないのだろうか。実際彼らを歴史主義の伝統に位置づける研究は多い。それは恐らく確かであろう。しかし、彼らの貢献は歴史哲学において大きいのであり、更には、歴史学の科学としての地位を正当化しようとしたというより、歴史学を自然科学に近づけようとした者であった。実際、フンボルトディルタイは歴史が科学たりえると言えるのは、ヘーゲル主義の呪縛を断ち切ることにより可能となると主張していた。ヘーゲル主義、そこに含まれる弁証法の概念は彼らにとっては推測的性格が強すぎ、形而上学的であった。後にリッケルトウェーバーらが類似の理由でマルクス主義を非難することにもなる。マルクスも結局唯物論形而上学の基礎付けに多くを負っている為に。

 

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歴史主義を今回は歴史学の科学的地位の正当化を試みる思潮と定義するからして、歴史学的方法に対する特定の見方を意味してはおらず、今回取り上げる歴史主義者においては、歴史学を自然科学と類似のものとみなすことに肯定的、否定的両方の立場を取る者が含まれることになる。

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このように広い概念を扱うことによって私は、広く理解されている意味での歴史主義の定義に伴う問題を回避したいのだ。先に述べたような歴史主義を歴史の一般法則や目的といったものを希求するといったものと同視したり、それとは真逆で歴史への相対的視点を意味することや、解釈学の伝統とみなすことというのは全て、定義において狭過ぎると私は考える。

 

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歴史主義の定義の正当さを検証するには、マイネッケの言うところの知的革命に貢献した思想家が全て含まれているかをまず考えなくてはいけないと私は考えた。他の定義においては少なからぬ思想家が除外されてしまうのだ。今回採択する広い定義は他の研究者も暗黙の内に前提としていたものなのである。

3 歴史主義と啓蒙(主義)

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なぜ歴史主義は西洋世界に知的変革をもたらしたのか、この理由は既にマイネッケへの軽い参照において確認した。しかし、この知的変革の深度と射程を十分に知るためには、多くの論争と解釈を招いたことを含め、更に正確にその次元と帰結を知る必要がある。

 

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広い歴史的視座から見て、歴史主義は西洋哲学において延々となされてきた社会的歴史的、道徳的価値の超越的正当化、たとえば、それらの価値に普遍的で不可欠な妥当性や、自身の社会的文化的コンテクストを超えた場所における指示を当てるようなものを覆したのだ。そのような正当化は、強く宗教的、すなわち神の摂理や超自然的妥当性のようなものでもあった。しかし、徹底して世俗的なものもあった。すなわち、自然法や人間理性のような観念がそれである。歴史主義は両者を疑問視したのだ。

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歴史主義の歴史的重要性は、啓蒙との断絶によってよく推し量ることができる。啓蒙は18Cヨーロッパの知的生活を支配していた。歴史主義の隆盛は啓蒙の衰退と同時に起こった。歴史主義はいくつかの側面において啓蒙に端を発するのであるが、最終的には啓蒙の前提と決定的理念を掘り崩したのだ。啓蒙の遺産に忠実に、歴史主義は理性の領域を拡張していると主張したし、実際彼らによる理性の領域の拡大は自然哲学が自然を説明したと同様に歴史を理性で解明するよう促したが、この企図は最終的に、啓蒙の合理的、普遍的原理を道徳、政治、宗教に与えるという試みを否定したのだ。人間の信念や慣行の原因や理由を突き詰めるほどに、それらは特有の歴史的文化的コンテクストに依存していることが明らかになり、これらの対象を普遍的なものとするべきでないということになっていった。道徳や政治、宗教における信念や慣行を、あたかも人々が、自身の文化を超えて目的、意味、妥当性を有しているというふうに、普遍的なものとして正当化することは、不可能でないにしても、困難になった。そのため、道徳的、政治的、宗教的信念を合理的に正当化するという、啓蒙の主要な目標は幻想であるとみなされたのだ。

 

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歴史主義の観点からすれば、啓蒙の主な問題は、啓蒙主義自体が克服したとされてきた中世の遺産に多くを負っていたことにあるということになる。中世神学は常に、諸々の諸価値に超越的妥当性を要求していた。啓蒙はそれの持つ、宗教的装飾を取り除いたのではあるが、より現世的な言葉で超越的妥当性を探し続けたのである。自然法であったり、社会契約であったり、普遍的な人間理性、不変の人間本性などがそれだ。これらすべての概念は歴史の流動を超えて妥当性が保証されると考えられたのだ。仏のphilosophes,独のAufllärerや、英の自由思想家(free-thinkers)といったすべての啓蒙思想家は、具体的な社会、国家、文化を判定するためのアルキメデスの点を求めていた。歴史主義の重要な含意の一つは、そのような立脚点が不在であることなのだ。

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近年の研究者にとり、歴史的哲学的な歴史主義の重要性は、啓蒙を打ち倒したことにあるという議論は、古い神話となっている。これらの研究者は、啓蒙は決して非歴史的なものではなく、後代の歴史主義者における歴史記述の方法と準則は明らかに18Cの啓蒙の著作家において明らかに看取されるとのことだ。啓蒙と歴史主義を対置させたマイネッケは彼らの批判の的となり、マイネッケの枠組みを単純でミスリーディングとして排し、代わりに歴史主義と啓蒙の連続性テーゼを採用する。

 

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啓蒙が非歴史的なものでないのはそうだとして、更には歴史主義が啓蒙から生じたのも確かだとしても、両者に断絶がないとは決して言えない。これら研究者はその逆に両者の連続性を単純に立てすぎる誤りを犯している。歴史主義が諸点で啓蒙に負っているとしても、その他の点においては、やはり両者は対立しているのである。大切なことは両者が連続している点と断絶している点を正確にし、記述していくことだ。ここで私たちは三つの非連続な側面を確認していく。

 

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啓蒙の特徴的な原理は個体主義、ないしはアトミズムだ。例えば、個人は自律的で、特定の社会的歴史的コンテクストと独立の、定まったアイデンティティを備えるということがそれだ。このテーゼは社会契約論などで常に現れるものだ。これはルソーやヒュームにおいて主張された広く普及した信念を反映している。不変の人間本性が存在している、具体的には人間は歴史を通して同様の存在であるというのがそれである。この個-アは、もう一つの啓蒙における特徴的な主張にまで遡る。それは、学問の正しい方法は分析的なものであり、ある現象を構成部分に分割することにあるという信念である。その方法は、自然科学において用いられたものであり、社会と国家に関する学問における模範とされた。

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歴史主義の伝統に位置する思想家のほとんど(ジンメルウェーバーなどなど)が、この個体主義を疑問視していることは明白である。彼らは変わって、人間のアイデンティティが固定的ではなく可塑性があり、不変なのではなく、変わりうるとし、それが社会、歴史における特定の位置に依存していると述べた。歴史主義の伝統におけるホーリズムによってアトミズムに反対するのは、そのためにも必要なのであった。全体を個々の独自に存在する構成員に還元可能とするのではなく、歴史主義は全体が諸部分とそれらのあり方に先んじて存在すると主張した。

 

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もう一つの啓蒙主義における決定項としては自然法が存在するという信念である。それは、すべての文化、時代において当てはまる普遍的な道徳規準が存在するというものである。これらの基準は”自然”であるとされる。それは、普遍的な人間本性(nature),ないしは自然の目的それ自体に基礎をおいているためであり、更には、特定の国家において成立した実定法や伝統に左右されないためであった。自然法の伝統はそのため、歴史の変動を通して単一の人間本性があり、すべての時代、文化における同一の道徳的価値を認める普遍的な人間理性の存在を主張するのである。

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その後の時代における19Cの歴史主義者,ランケ、ドロイゼン、サヴィニー、ディルタイ、そしてジンメルは、自覚的かつ明確に、自然法の伝統を否定していった。ヘルダーやメーザー、フンボルトにおいてはこの伝統は未だいくつかの側面において利用されていたが、彼らは自然法における用語を用いる一方で、非常にその概念に批判的でもあった。歴史主義の伝統におけるすべての思想家は、自然法における教義は不当に、18Cヨーロッパにおける価値をあたかもすべての時代と文化に当てはまるかのように普遍的なものとしたと主張している。ある文化、時代における諸価値を理解するためには、それはその時代、文化の内側にたって研究し、その歴史と諸状況からどのようにしてこれらの諸価値が生じたのか調査する必要があると彼らは述べる。歴史的に諸価値を考察することにより、それら諸価値の目的と意味が全般的に特定のコンテクスト、それらの社会的、歴史的な総体における特定の役割に負っていることが明らかになるのだ。これらのコンテクストはそれぞれが唯一の、協約不可能なものであり、そのことはその内側にある諸価値にもあてはまる。そのため、歴史的、社会的コンテクストに関わらない一般化を行うことは不可能となるのだ。

3-11

啓蒙における世界を合理化するという試みに関して重要であったのは、政治的近代化という計画、特に、官僚的集権化、法典編纂への奮闘である。プロイセンのフリードリヒ大王や、ヨーゼフ二世、フランスの革命における政体で見られるような啓蒙的政策は、すべての都市、地方、宗教に当てはまる単一の法規範の形態を創出、施行しようとした。古い地方的、宗教的な慣習と法の乱立は単一の合理的な制度のために廃棄されるべきなのだ。これらの法典編纂作業は、政治的集権化と手を携えて行われた。それは、すべての地域を単一の統治者と官僚組織の下で統治、管理しようとするものであった。地方の自治と宗教の自律は中世の遺物として取り除かなければならなかったのだ。

 

3-12

歴史主義者の伝統はこの抵抗から始まるのである。啓蒙の法的な統一性や中心による支配に対抗して、初期歴史主義者(メーザー、ヘルダー、サヴィニー)は、地方の自治と、法的な多様性の価値を援護した。啓蒙の世界史民主義に対しては、地域的基盤を持つことや、特定の時と場所に調和することの価値を説いた。そのため、個体性の原理(歴史主義における)は認識論的のみならず、道徳、政治的な意味を備えることになった。地域性や、特定の国家への志向は、個人のアイデンティティの基盤として、促進され、保護されるべきものとされた。後期歴史主義者(ドロイゼン、ジンメルウェーバー)は中央集権国家の不可避性を認識していたが、世界史民主義は志向せず、所属しているコンテクストとしての場所を、国家全体に広げたのみであった。


4 歴史学的知識という問題

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啓蒙との一定の断絶以外にも、歴史主義が知的革命であるとされる理由は存在しているのだ。それは、歴史の科学としての資格を、古代にまで遡る知のパラダイムを排することにより、正当化する試みのことである。そのパラダイムアリストテレスの『分析論 後書』における、科学は、論証可能な知識から成り、その論証は必然的な前提による推論によって行われるというものである。アリストテレスによれば、ある命題の審議は三段論法により検証可能である。そして、その場合のすべての前提は、普遍的、必然的に正しいものである、すなわち、真偽は、全ての事例に措いて真であるかそうでないかに分けられる。このような、数学的原理に依拠した科学の理想は、歴史学には適用困難であった。そのような意味での厳格な基準によれば、歴史学は科学ではないとされる。歴史の主要な対象は、普遍に対立する意味での、特殊であり、あれこれの人や出来事という論理的では他でもありえたものであって、アリストテレスの要求する意味での普遍性と必然性に欠けていた。アリストテレスはこのように結論を導きだし、このような理由で、歴史学を、知の形態として詩学よりも下位に置いた。歴史家は、ある人がある時代に措いて、何をなしたかを伝えるのみであるが、詩人は、ある性質の人間が同様の状況に措いてどのように行動するのか、といういくらか普遍性を備えたものを伝えるという意味で。

 

4-2

この歴史学に対する汚名は、初期近代に至るまで維持されてきた。スコラ学への反動の存在にも関わらず、アリストテレスの科学に関する理念は17,18世紀の偉大な人物において生きながらえている。例えば、デカルトホッブズライプニッツそしてヴォルフはアリストテレスの検証可能な知識としての科学としての科学のモデルを支持していた。彼らは、証明可能な命題、それらの全てが定義から、もしくは自明の前提から導出されるような命題の体系から、科学は構成されると主張した。ある命題が、科学としての身分を得る為には、普遍的かつ必然的な妥当性が要請され、歴史学の命題を含んだ経験的命題は、そのような意味で、知識としては扱われなかった。以上のような理由により、これらの思想家は正当にも歴史学を科学の領域から排除していたのである。デカルトは、『方法序説』において、最も正確な歴史に措いても知識の基礎たり得ないとの警告を発し、ホッブズは、『物体論』にて、歴史を哲学から排している。「なぜなら、そのような知識は、経験や権威であって、推論ではないからである。」ライプニッツとヴォルフは共に、歴史学は、特殊性と偶発性の領域に属するが故、科学としての地位を得ることは出来ないと明言している。ヴォルフが記すところによれば、一般的な歴史学の知識は、知識における最も低い地位を占めている。なぜなら、それは感覚に依存しており、諸々の出来事の原因に向けられた洞察を我々にもたらさないからである。初期近代の合理主義者達は、そのため、科学と歴史の間に断絶を見出している。歴史家は、プラトンの言うところの洞窟の深みに囚われたままだと言うのである。

 

4-3

重要な点に措いて、18世紀の啓蒙の時代は、歴史的知識を正当化することに関する問題をいっそう深めることになった。啓蒙の第一の価値は、自分で考えると言う意味での知的な自律である。自分で考えるために、私たちは自信の洞察に基づいて、同意を行うようにしなければならず、自身の理性や敬虔により確信できた命題のみを受け入れるのである。私たちは権威に基づいて、信念や信仰から命題を受け入れてはならない。ここにおいて、歴史はまたしてもこれらの基本的要求を満たすのに失敗したようである。自身の理性と敬虔のみで、歴史の命題を検証し得ないのである。歴史は過去を扱うものであり、過去は存在しておらず、各人の経験を超えているという問題であった。自然科学には再現性があるのに対し、歴史の固有の出来事にはそれがないのだ。というのも、歴史は必然的に、検証と、他人の手による資料への信頼と信念に基礎を置くからである。そのため、歴史はその本性上、科学たり得ないのであった。

4-4

その徹底的な変革にも関わらず、カントのコペルニクス的転回は、過去との完全な断絶に至ることは出来なかった。合理主義への鋭い批判をおこなったが、そこに含まれる科学の理念を未だにカントは保持していたのだ。彼の合理主義の理念への傾倒は、科学が自明の原理によって構成される体系から成るとする彼の主張からも読み取ることが出来る。合理主義の伝統における数学的理念への拘りは揺らがなかったのだ。そのような立場は、”自然科学の形而上学的基礎”の前文における、ある原理は、その主題が数学的操作を許容する程度だけ科学的であるとする記述にも現れている。

 

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歴史主義者達はどのようにしてこれらの困難に対峙したのであろうか?カントや啓蒙思想、合理主義に対してどのようにして彼らは歴史学の科学としての地位を立証しようとしたのだろうか?その応答には多くのヴァージョンがあり、それらは全て複雑なあり方をしていたのだが、後述する。ここでは、主要な展開を概観していく。

 

4-6

17世紀の末期に、応答の1ヴァージョンは明確化されていた。新しい合理主義の精神に感化されて、フランス、オランダにおける、多くの初期近代の歴史家達、バイユ、デュボス、Frensnoyらは、歴史自身に高度の明証性を要求するようになった。これらの歴史学的ピロニズムは、Descartesの方法論的懐疑を歴史に持ち込んだ 。彼らは伝統的な歴史学の情報源には懐疑的で、十分な明証性が確かめられた時のみそれらを受け入れるようにした。全ての資料は出来る限り、その起源を辿られ、文書館の原典と照らし合わされることで認証されなければならなかった。Descartesが科学的方法の原理を打ち立てたように、歴史学的方法の原理が打ち立てられることになった。利用される資料は、目撃者によるもの、同時代の記述により確証できるもの、他の検証された事実と整合するもの…といったもののみに限られた。歴史家達は、単純で質素な事実こそが、探求の目的であり、出発点ではないことを悟った。この歴史における新しい合理主義者の精神は、18世紀を通じて徐々に成長していき、その世紀の末には特にドイツにおいて、標準と成っていた。例えば、ミュンヘンマンハイムゲッティンゲン大学などでは、出版許可を行う前に、全ての歴史学的著作は徹底した資料の研究に基礎づけられていなければならず、これらの資料は著作に引用されていなければならなかった。18世紀末、19世紀のドイツの歴史主義者は、新しい合理主義的精神のチャンピオンなのであった。19世紀の偉大な範例はランケであり、彼はそれまでの伝統の象徴であり、蓄積に他ならなかった。

 

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もう一つの応答のヴァージョンは、ベーコンに端を発するものだ。彼は、17世紀の初頭に、アリストテレスの伝統とその論証的な知識の枠組みに向けた先鋭な批判を行った。彼は、Novum Organonにおいて、論証を主軸とするパラダイムを非効率的な自然調査の方法として攻撃した。確かに論証という手法は、既に得られた知識の説明や整理に関して有効ではあるが、新しい知識の獲得の手法としては有用ではないと彼は言う。発見をなす為には、私たちは単に自然について推論する以上のことをしなければならず、自然に直接向き合い、疑問に答えるように自然に働きかけなくてはならない、すなわち、実験を行わなくてはならない。自然を分解、統合するだけの力があれば、私たちは自然についての知識を得ることができるのである。故に、自然について知ることは思考に関わる問題ではなく、行動に関わる問題なのである。「人間の知識及び人間の力は一つに結合するのである」懐疑派の、私たちが自然を知る可能性に対する懐疑は、人間が自然に対して力を持ち、自身の命令の通りに帰ることが出来るという事実で反論することが出来るのだ。ベーコンは、古い論証的知識の枠組みを、特に懐疑派に対する弱さと言う点で疑った。その枠組みへの批判としての、懐疑派の知識への攻撃は反論の余地のないものであった、自然は推論や論証のみでは知り得ないということを明確に示していたのだ。

 

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ベーコンは常にこの新しい方法の社会的政治的利点を主張していたが、その方法が主な対象としていたのは自然研究についてであると見做していた。その方法の人間的事象にとっての重要さと適用が見られるのはヴィーコの”Scienza Nuova”においてである。ヴィーコの大きな貢献はベーコンの枠組みが自然的事象以上に人間的事象にとって当てはまることを発見したことである。社会的政治的環境は私たちに取って十分理解可能で無くてはならないとヴィーコは言う。それというのも、それらは私たちが創りあげたものだからだ。自身等が殆ど関与しない自然的事象について人間は殆ど知り得ないが、文化的事象—それらの法、言語、制度そして技芸は人間のなしたものである については多くを知りえるのだ。ヴィーコの作品はドイツで殆ど知られることはなかったが、その背景にあるベーコンの枠組みは、ヴィーコとは別の媒介者により十分に知れ渡っていた。それはカントである。ベーコンの枠組みは、カントの思考の背景にある「思考の新しい手法」と全く同様のものであった。彼の”Kritik der reinen Vernunft”の序文において、カントはアプリオリな知識を全ての知識の枠組みとした。その上で、私たちはアプリオリな対象を自身がそれらを構成する範囲においてのみ知りえると彼は主張したのだ。更に彼によれば、私たち自身の知るという営為は、私たちにとっては明白なことであり、私たちが構成する範囲において、物事を知ることが出来るのだ。カントが自身の研究の方針として、ベーコンの”Instauratio Magna”から引用を行っているのは理由のないことではないのだ。

 

 

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そのため、カントの強力な合理主義や、非歴史的な理性の概念、更には彼が「歴史的思考」を欠いているということにも関わらず、彼の哲学はやはり、新しい人間の科学にとって革命的な重要性を備えているのである。その重要性はベーコン的な知識の枠組みに由来する。カント自身は彼の原理の社会的文化的領野への適用を予見していなかったが、その原理の持つ含意はその語の発展に十分なものなのだった。フンボルト、ランケ、ドロイゼン… は皆、カントの原理を歴史的知識自身に当てはめたのである。カントによる新しい枠組みは、少なくとも原理として、過去と現在の人間世界の全域を理解する鍵を与えるように思われたのだ。彼らの信念によれば、私たちは人間世界を理解可能なのである。そのことは、それらを自分たちが構築しており、何をなしたのであれ、自身の創造したものは自分たちに取っては明白なのである。と言う明快な理由によっていた。同様の手がかりによって、私たちは過去を理解することが出来る。というのも、私たちにはそれを追体験し、以前それをなした昔の人間と同様の創造的行為に参与する能力を備えているからである。

 

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ベーコンの枠組みと同程度に重要なのは、新しく出現していた歴史に関する有力な認識(science)である。それはまだ、歴史の科学としての地位を主張できるほどではなかったのであるが。結局のところ、私たち現在の世代は、過去の全ての出来事を構築することはなく、私たちは累積した遺産—現在、私たちがその中で生きる世界を構築した強力で、明白に異質な力の相続者なのであるというのがそれだ。そうだとしたら、私たちは、自分たちが構築したのではなく、自分たちを構築したものである過去と言うものをどうやって知ることが出来るだろうか。けれどもこの認識が、歴史主義が革命的である要素なのである。歴史主義は過去に対する全く新しい姿勢を含んでいた。それは、過去を何か失われたものとするのではなく、生成する現在の一部であるとみなす。歴史主義者にとって、過去と言うのは単に異質なものではなく、自身に深く根付いたものとされるのだ。それは、失われるものではなく、今-ここに私たちと共にあるのだ。過去が今の私たちを形成する。このような過去の見方の背後には、ヘルダー、メーザー、サヴィニーそしてフンボルトによる、歴史主義的な、新しい全体論的な人間学が存在している。その人間学とは啓蒙主義個人主義、原子論に対抗して生じたものであった。旧来の人間学は、歴史的、社会的地位から自立した人間の固定的本性、同一性というものを仮定していた。文化が変容したり、社会的、歴史的立場が変わったとしても、個人は本質的には同一だと考えられたのだ。過去は個人の内面には根付いてはいない。というのも、歴史は、個人の同一性形成においては役目がないからである。それに対して、新しい歴史主義者の人間学においては、個人の同一性は徳的の文化や、社会的歴史的地位にまさに依存しているとされる。そのため、過去とは私たちの内面に根付いており、現在の私たちを形成している。この新しい人間学は、私たちの自己認識は、自身の過去、起源にさかのぼることで初めて可能になることを含意している。そして、過去を知る為には、自分たちがというものが与えられる過程を遡り、私たちに既に何が与えられているかを開示すればよい。

 

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しかし、懐疑的な人間はこう述べるであろう。この点を正当に受け入れたとしても、歴史に科学の地位は依然として与えられないと。つまり、自分たちが歴史によって形成されるということを受け入れたとしても、私たちは過去がどのようであったかを決定することに対して、依然として望ましい立場に立ったことにはならないのである。何と言っても、私たちは内省のみによって過去を知ることは出来ないのである。私たちは過去を知るに際して、非常な骨折りを避けることが出来ない。それは、いくつかの情報の破片を正当に理解し、記録や遺物から得られる不整合な情報の破片を、再構成することの困難に外ならない。そのうえ、いかなる再構成も科学の水準から求められるものからは隔たっているように思われるのである。だが、繰り返しになるが、このような懐疑に対して歴史主義者は回答を備えているのだ。その回答は、クラデニウスが1750年代に用意したものに端を発する。そして、彼の様々な方面に向けられた一連の推論は、歴史主義の伝統の大要を表している。1751年の”Allgemeine Geschichtswissenschaft”において、彼は歴史的懐疑派(Pyrrhonist)に対し、歴史的知識にはそれ固有の知識の基準を有しており、それは、論証的な知の基準とは独立に考察されるべきだと主張した。確かに歴史的知識はしばしば不確定であるが、それらを論証不可能であるという理由から一纏めにして棄却するのは不合理である。歴史学は数学ではなく、そのような性質を備えることを望むべきではない。アリストテレスが述べたように、私たちはその主題が許容する以上の厳密さを期待することは出来ないのである。勿論、私たちが歴史的命題の多くを疑うことは可能であるが、それは、歴史学における明証性の基準に達してない時のみに有意なのであり、それを幾何学的明証性を得られないことで疑うことは意味をなさない。クラデニウスは細部にまで渡って、歴史家の証拠収集と精査の方式を解説した。これら説明された方式は、基準と厳格さを保障し、それに従うことで、歴史家は、主題に関する十分な精確さを得ることができ、少なくとも確実性を得ることに失敗したこと—これを知ることが出来ることもやはり科学であることの指標である の確信を得ることができた。